ひとりでありながら、ひとりではない。生きとし生けるものが緩やかに繋がり、向き合い、日々を暮らしていくこと。私たちが今を生きるうえで必要なことが、11曲のなかに含まれている。そんなことを思わせてくれる。
3年ぶりとなる寺尾紗穂の9枚目のアルバム『北へ向かう』は、寺尾紗穂の伸びやかな歌声とピアノの響きに、多くのミュージシャンが参加することでしかなし得ない豊かさ、ポリフォニーを獲得した作品だ。
精選されたサウンドを聴くと、フォーク、民謡、童歌などの音楽ジャンルが頭を過るが、これらの言葉だけでは、形容しがたい奥行きと深さを、聴けば聴くほど身に染みて感じるようになる。
作品の始まりと終わりで歌われる「夕刻」、「夕まぐれ エレクトリックギターバージョン」では、GEZANのマヒトゥ・ザ・ピーポーが、歌とピアノに寄り添いながらエレキギターを鳴らす。
この構成と同じように「一羽が二羽に」では、寺尾の歌とピアノに池田若菜のフルートが、「記憶」では、U−zhaanのタブラが、一対一のコミュニケーションをとるように演奏に参加する。
ひとりとひとりが向き合って音を鳴らす。そこから生まれる音像は、言葉にすれば失われてしまいそうなほど広く広くひろがっていくことに、素直な感動をおぼえる。
もちろん他の楽曲で奏でられるバンドサウンドも素晴らしい。
2018年にリリースされた『冬にわかれて』でおなじみの伊賀航(Ba)とあだち麗三郎(Dr)が参加した「君はわたしの友達」、「選択」、「心のままに」では、ずっと聴いていたいと思わせてくれるバンドアンサンブルに満ち満ちている。
蓮沼執太が編曲に参加した「やくらい行き」では、蓮沼の土笛、ゴンドウトモヒコのユーフォニアムとフリューゲンホルン、千葉広樹のバイオリンが、楽曲世界へ引き込んでいく。
キセルが編曲と演奏に参加した表題曲「北へ向かう」では、父である寺尾次郎との別れが歌われる。ひとりで歌うと「感情でいっぱい」になるというこの楽曲を、「淡々と開けた場所に持って行ってくれる」気がしてキセルのふたりに楽曲への参加を依頼したという。*1その思いが如実にあらわれているように、個人の切実な体験に他者の音が調和することで、独特の軽やかさと情感が想起される。
僕らは出会いそしてまた別れる
叶わぬことに立ち止まり祈る
日々生まれゆく
新しい愛の歌が
あなたにも聞こえますように
「北へ向かう」
無常観の先にある、もういなくなってしまった者たちへ、思いが届いてほしいという切なる祈り。寺尾の命へのまなざしが凝縮されたような、そんな詞だ。父の死が題材の楽曲ではあるが、このフレーズには作品全体を通底する生命への愛情のような何かが感じられる。
詞に関しては本人も述べるように「いのち」を歌ったものが多い。*2特筆すべきは、一曲目「夕刻」に石牟礼道子の詞が用いられていることだ。
本作を聴いておもいだしたのは、石牟礼道子のエッセイ「花の文をーー寄る辺なき魂の祈り」だ。列車事故で亡くなった弟、水俣病と向き合った人々、そして母。かれらの語りや所作を石牟礼道子は自らの言葉でつないでいく。かれらの生命を思いかえし、語りながら、本エッセイはこのように締め括られる。
忘れられない死者たちのことを書き綴ってみたが、人間というものは、限りなく美しい世界を求めて真摯に生きているのだと、あらためて想う。わたしはずうっとそういう死者たちとともに生きて来た気がする。*3
微かな声や小さな動きに宿る美しさ。石牟礼道子が語った言葉と交信するような詞世界が、『北へ向かう』にもあらわれていると感じる。
「やくらい行き」で歌われる山と里に別れてしまったふたりの物語。この楽曲では、その後薬師如来となったひとりと、神になったひとりについて歌われ、伝承の世界へと結びつく。
続く楽曲では、「安里屋ユンタ」という竹富島の古謡がカバーされることも納得できる。こうしたモチーフは石牟礼作品とも通じる点がある。
加えて、いまここにいないものたちのことを歌うだけでなく、空を舞う鳥(「一羽が二羽に」)、まだ出会っていないもの(「君は私の友達」)まで包み込み歌うことにも結びつけられるだろう。
一羽が二羽に
寄りそうだけで
ただそれだけで
うらやましくて
美しくて
涙が出そう
「一羽が二羽に」
こうした寺尾のまなざしは、いまを生きる多様なゲストミュージシャンの音と共鳴し、聴き手にそっと寄り添い、視座を与える。それは冒頭にも述べたように、生きとし生けるものすべてを愛でるまなざしなのではないだろうか。混沌とした空気が周囲を包む2020年に、前方をそっと照らしてくれる、そんな大切な作品だとつよくつよく思う。