魂のダンス

書く無用人

【南3-4ホール/け-69】文学フリマ東京42に出店します

ご無沙汰しております。

日記的な何かを書く習慣がなくなったのと、はてなブログに広告が出るようになったので、すっかり更新していませんでしたが、こつこつ書き物は続けています。

 

2026年5月4日に開催される文学フリマ東京42に出店します。詳細は以下のリンクをチェックしてみてください。

 

【南3•4ホール け-69】文学フリマ東京42に出店します|PINFU×野本泰地

 

よろしくお願いいたします。

ウォーキング(2)

『井伏鱒二自選全集』を本腰を据えて読もうと宣言したものの、結局読まずじまいのまま今日まで過ごしている。本は読んでいるが、自選全集に手が出ない、全集は装丁がしっかりしているし、大きいし、それが豪奢な函に入っているので、持ち運びしづらい。廉価で購入したけれどそこらの本屋ですぐに買い直しができないものだから、できる範囲で大切に扱いたい。そうなると家で読むしか選択肢はないのだが、私はまず家に帰ったあと、夕ごはんを食べ、時に作り、その後風呂ないしシャワー、出たあとは誰かから連絡がきていれば返事をしつつ仕事で疲れた脳を休める、洗濯機を回し、洗濯物を干し、洗い物をし、明日のための米をとぎ炊く予約をするなどしているうちに、いつの間にか日付が変わる寸前になり、ねむくってねむくってしかたがない。一日というのは短すぎやしないか。ねる前に本でも読む際は、分厚い全集よりも通勤時間に読んでいる持ち運びのしやすい本を先に読もうと思ってしまう。家にいる時間がもう少し長ければいいが、働かなければ家賃が払えない。そんなわけで書く時間も十分にとれていない。いや、書かなくてもやっていけてしまうのだ! いぬのせなか座の鈴木一平+なまけ+山本浩貴『座談会9』という本を読んでいると、山本が、自身がこれまで「生を表現すること」を主要なテーマとして考え、ものを作ってきたものの、逆にそれをまったく考える必要のない生活についても思い浮かべてしまう、自身は「実は表現なんてしなくても生きていけてしまう側の人間だと思う」と述べている。私も表現したいとは思いつつも、妻や友だちと過ごしたり、音楽をきいたり、ライブを見たり、バスケをしたり、料理をしたり、すきますきまで何かを読んでいればそれで十分だとも思っている。ただ、前述したように「表現したい」という私自身の気持ちもないがしろにしたくないとも思う。いったいこの思いはなんなんだ。有名になりたいわけではない、恥ずかしいことだけれど、少し前までは自分の表現が何かしらの栄誉を受け取って会見なんかでしゃべっている姿をいくどか夢想したことがある、こどものころ、元近鉄バッファローズの中村ノリが豪快なホームランを放ち、ヒーローインタビューを受けている姿に憧れて、中村ノリの写真がどんとプリントされた箱に入ったちゃちな作りのバッティングマシーンのおもちゃを親に購入してもらったことがあったときに近い、みんなも一度はこのようなことをしたことがあるにちがいない。「表現したい」という気持ちはちやほやされたいとはちがくて、ここでの私の表現は書くことなのだが、書く先に何かがある、それを見たい、のかもしれない。いや、ちがうきがする。書く行為そのものの過程で起こる、心身の変化を感じ取りたいのか? ついこの間から、思い立ったように手書きで文章を書くようになり、推敲しながらキーボードに打ち込み、公開している。公開しなくても別にいいのだけれど、都度都度のモチベーションを保つために公開はしたい。練習ばかりでは続かない、試合でしか得られないカタルシスがなければ先が見えない。本棚にある『大江健三郎自選短編』を手にとった。八百ページ超あるのでまだ半分とちょっと、加えて気になった作品しか読んでいないのだが、巻末の「生きることの習慣ーーあとがきとして」は先に読んだ。このタイトルはフラリー・オコナーのエッセイで見つけた表現を大江流に訳したものであり、オコナーに影響を与えた「哲学者ジャック・マリタンから示された定義として、この一句の意味するところを要約しています。」のあとに続く一文、「小説を書くことは、全人格が参加する行為であり、芸術は人間の全体に根をおろしている習慣である。/長い時をかけて、経験を通して、それを養わねばならない。そうすれば自分が知らない大きさの困難に出会った際に、この習慣が助けになる。……」

ウォーキング(1)

二〇二五年二月八日、私は文学フリマに出店するために広島へ向かっていた。文学フリマ自体は翌九日に開催されるのだが、当日万が一のことが起きて開場に間に合わないとせっかく払った出店料が無駄になることを避けたいのと、広島の友人たちと久しぶりに会って遊びたい飲みたい、もちろん後者が明確な理由となって前入りすることにした。八日は日本列島各地で雪が降り、当初乗る予定だった新幹線は岐阜県関ヶ原付近での積雪の影響により運行が大幅に遅れた。運よく前の便に振り替えることができ乗車できたのだが、一部区間において速度を落として運行していたこともあり、予定の一時間遅れでの到着となった。こうなるのであれば、フリーペーパーを完成させて持って行くことができたのかもしれなかった。私は友人・Pと共に『小島信夫を読んで考える』というZINEを制作し、二〇二四年十二月に開催された文学フリマ東京で販売した。このZINEの元となった往復書簡はnoteで公開しており、それを読んで買ってくれた人もいれば、友人も会場に来てくれ購入してくれた。他には書名に「小島信夫」という作家名が入っていることに興味をもち、手にとってくれた人もいた。そこで私は個人的に井伏鱒二をもっと読みたいと思っていたし、井伏の故郷である広島で文学フリマが開催されるのだから、井伏に関するフリーペーパーを用意しようと思ったのだが、間に合わなかった。その内容は以下の通り。二〇二三年十月十四日に神保町の古本屋で、私は『井伏鱒二自選全集』全巻セットを購入した。「日本の古本屋」というサイトで小島信夫作品の出品がないか調べていて、欲しかったのは軒並み価格が高騰しており、今日もまた注文するのはよそうとしていた。その後、トップページに戻ったか、関連商品一覧を見ていたか、どうだったのかは記憶がなく詳しいことは書けないのだけれど、『井伏鱒二自選全集』の全巻セットが手ごろな価格で売られていたのを発見した。小島信夫の『寓話』なんかの半額以下だった。出品者情報を見ると神保町にある古本屋だったので、翌日、状態がどんなかを見に行ってみることにした。入り口左の全集が山積みにされているコーナーの真ん中に、それはあった。店員さんを呼び中身を確認できないか聞いたところできるということだったので、店の一画で本をぱらぱらとめくりたしかめた、かなりきれいだったので購入した。私が井伏作品をはじめて読んだのは、教科書にも掲載されている「山椒魚」ではなく著名な「黒い雨」でもなく、「たま虫を見る」という短編だった。高校一年生のころ、当時私の周りはSNSが浸透しておらず、私たちのなかでそれに近しいものといえばモバスペといった個人ホームページ、通称ホムペを作れるサイトで、「リアル」を更新するといったものだった。「リアル」というのは今でいうツイッターのつぶやきに近しいものを想定してもらってよい。その日あったこと、感じたこと、ぐちなどを、友達しかしらないホームページ上へ、ガラパゴスケータイでかちかちと打ち込んで投稿していたものである。ある年の一月中旬、夕ごはん後に先輩のホムペをのぞいてみると、「たま虫にやられた」と書かれてあった。田舎に住んでいたので歩いていたらたま虫の襲来にあったのだろうかと一瞬思ったが、よくよく考えるとその日はセンター試験で、ニュース速報を見ると国語の小説問題に「たま虫を見る」という作品が掲載されたという。調べてみると、ネット上のそこかしこで「たま虫」「たま虫」言っている。一体なんなのだ、と思ったが、風呂に入るなどしているうちにすぐに気にしなくなり、YouTubeで音楽を聴き漁っているうちにたま虫のことは忘れてしまった。月日は流れ、いざ自分も受験をするとなったときに、センター試験の過去問は解いたほうがよいときき、新しいものから順に解いていると、「たま虫」に再会した。「たま虫を見る」は井伏鱒二による短編小説である。一九二六年に発表されたもので、井伏の初期作品である。「おそらく私ほど幾度も悲しいときにだけ、たま虫を見たことのあるひとはあるまいと思う。」という書き出しの後、「私」がたま虫を見た幼少期、青年期、無職期、就職期の四つのエピソードが語られる。問題を解くつもりで読んでいた私は、本文に線を引いたり大事そうなところに印をつけたりカタカナで書かれた文字の横に漢字を書いたりしていたのだが、問題を解いて丸つけした後、この作品を数度読み返し、微笑をたたえたのである。当時の私は学校の授業以外でショーセツなど読まずに、バスケットボールと音楽とももいろクローバーZのことしか考えていなかったのだから、何に惹かれたのかはわかっていなかった。学生時代、「私」が恋人と次に会う約束をしつつ、イイ感じになっているとき、「私」のレインコートの胸にたま虫がとまる。恋人はそれを弾いたので、「私」は叫ぶ。「たま虫ですよ!」死んだたま虫を恋人は草履でふみにじる。たま虫の色と「私」のレインコートの色が同じである、美しい色だといいながら、はじき、潰す恋人と、うろたえる「私」の様子。「私達はお互に深い吐息をついたり、相手をとがめるような瞳を向け合ったりしたのである。」という本挿話の締めの一文からは、想像しうる互いの詳しい心情を深追いしないからこその余韻がある。ショーセツにかぎらず、本でネットでさまざまな文を読んでいると、語りすぎではないかと思う瞬間がある。すべてを言い尽くすことなどできやしないのだから、語らないからこそ生まれる感慨はまちがいなくあるのだから、それを表現するために踏ん張らないといけないのではないか。大学生のときに授業の一環で読んだ『黒い雨』はレポートを書かなければいけないという前提があったので作品に入り込むような読み方ができなかった。その後、町田康にハマり、彼の作品やインタビューを読むうちに、井伏の名前がよく出てくるので井伏作品を読んでみるとおもしろく、古本屋や本屋で見つけては買い、読み、就職のため上京するとなったときに自然と選んだのが、井伏の居住地にほど近い阿佐ヶ谷だった。杉並区立阿佐ヶ谷図書館には、「文士の森」コーナーがあり、井伏の全集や関連人物の作品を借りては読んだり読まなかったりを繰り返していた。ただ、私の中で、井伏の作品にできるだけ読みたいという思いはあったが、寄り道で他の本を読んでしまうのでちっとも先へ進みやしない。購入した文庫本なら読んだのだが……そして私は阿佐ヶ谷を離れ、まったく思いがけない形で「井伏鱒二自選全集」全巻セットを見つけ、購入することになった。もう一年半も前になる。今年は小島信夫も読み進めつつ、井伏鱒二の自選全集を読み進めたいのである。

文学フリマ広島7に出店します

昨年末の文学フリマ東京で販売したPINFUくんとの共著『小島信夫を読んで考える』やそれぞれの作品集を、文学フリマ広島7でも販売します!近郊でご都合のつく方々、よろしくお願いします〜

 

📅2025/2/9(日) 11:00〜16:00
🗺️会場:広島県立広島産業会館 東展示館 第2・第3展示場

💰入場無料
📍C-14

🔍詳細:文学フリマ広島7 – 2025/2/9(日) | 文学フリマ
📙webカタログ:PINFUと野本 [文学フリマ広島7・小説|純文学] - 文学フリマWebカタログ+エントリー

 

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PINFU・野本泰地『小島信夫を読んで考える』通販開始しました

2024年12月1日(日)の文学フリマ東京39で販売した『小島信夫を読んで考える』通販ページを開設しました。さいきんは匿名配送なんてできるんですね。よろしくお願いします👍

 

「野本さん、小島信夫の『残光』についての本をつくるのはどうでしょう?」 保坂和志の小説的思考塾で出会った、PINFUと野本泰地による往復書簡です。 小島信夫の文章を起点に、手紙という形式を使って、それぞれが考え続けました。

編集・発行:PINFU+野本泰地
装画:PINFU
デザイン・DTP:野本泰地

 

PINFU・野本泰地『小島信夫を読んで考える』 - PINFUと野本 - BOOTH