魂のダンス

書く無用人

20240407

 私は「周辺から」事態を捉えるという視座を貫いてきた。それは単に、視座をずらすというだけではない。周辺へと押しやられる人びとに最後に残された眼力こそが、構造的暴力のあり方を照らし出す重要な立脚点となると考えるからである。エスノグラフィーを書くことは、事態にどうしようもなく巻き込まれる人びとが見届けている世界を、その傍らで垣間見るーー覗き見るのではなくーーことから始まる。自分の人生でありながら、決して思い通りにはならず、まるで劇場のスクリーンのようにさまざまな出来事が進んでいく。そうした「スクリーンの人生」において、人びとが「どうなるのか」と見届け、そして僅かの隙を探って「どうするのか」と身構えている世界を書き残すことは、私にとって重要な実践であり続ける。

(石岡丈昇『タイミングの社会学 ディテールを書くエスノグラフィー』p.391-392、青土社、2023年)

 

 先日読んだ、石岡丈昇『タイミングの社会学 ディテールを書くエスノグラフィー』が非常におもしろかった。マニラの貧困地区に暮らす人びとの生活と、そこから導かれる理論に、わたしは刺激された。根が生真面目なので、詳細なことを書こうとしては頓挫し、というより、本書で書かれているすべての事柄が、わたしにとっては重要だったので、ここに書ききれない。

 友人のPくんに教えてもらった山下澄人関連の記事などを読んでいて、それについて考えたり、そうするために色々と別の本を読んだりしていると、読むことばかりがたのしくなって、ここに書くことをすっかり忘れてしまっていた。(上に挙げた『タイミングの社会学』以外にも、津村記久子の『水車小屋のネネ』がめちゃくちゃおもしろくて、行き帰りの電車で感極まり、天井をずっと見つめてしまった。あとは小島信夫をずっと読んでいる。)下書きに放置されたのは、以下のような文面だ。

「最近は食欲が増してきて、ごはんをたくさん食べてしまう。炊いては冷凍していたご飯を解凍ばかりしているうちに、ついに米が足りなくなったので、パックのご飯を夜にスーパーまで買いに行った。冷凍ご飯はひとつで足りるのに、パックのご飯だとひとつじゃ食った気がしなくてふたつ食べてしまう。パックご飯は米としての密度が足りないんじゃないか。」

 去年の今頃は色々あって体重が落ちに落ちてしまい、食欲もそんなになかったのだが、ここ一年で運動を再開したり、これまで以上に人に会って話をしたりしているうちに、だいぶん元気が出てきて、ごはんをたくさん食べることができる。

 知人に糠床セットをもらった。きゅうり、なす、にんじんなどを漬けておいて一日くらい放置するだけで、簡単においしい糠漬けができて、うれしい。おいしい。毎日かき混ぜるのは、すぐに面倒になってしまうかと思いきや、そんなことはない。糠のやわやわとした感触が存外に気持ちよく、飽きない。

 毎日飽きないことばかりだ。朝ごはんを作って、食べて、通勤中は音楽を聴いたり、本を読んだりしている。仕事から帰って、ごはんを食べて、小説を書いたり、本を読んだりしている。寝る前に糠床をかき混ぜる。たまにネットサーフィンしながら、今年チャレンジしたいことを考える。ドラムを習い始めたいが、レッスン料が高く、引っ越したばかりでカツカツの生活をしているので、なかなか勇気が出せないので、誰かケツを叩いてください。

 去年は元気を出すために、行けるライブはぜんぶ行こう! という気持ちで過ごしていたのだが、引っ越した訳で余裕もちょっと減ったので、なるべく年に十本以内(音楽に限る。お笑いや観劇はノーカン。)に抑えようと思っているのに、すでに四本もライブに行き、六つ確定してしまっているので、あと一つしか行けない。もうこのルールは守れそうにない。行ったライブはどれもすばらしかった。

・1/26 おとぼけビ〜バ〜×betcover!

・3/7 Wilco

・3/23 Marker Starling & Dorothea Pass × yumbo

・3/28 Puma Blue

 今年は宇多田ヒカルのライブにも行ける。