魂のダンス

書く無用人

合掌(BFC5一次予選通過作品)

 車に轢かれてから脚の調子が悪い。靴を履くにも手間取る。 杖をつき近所を散歩。くもり。歩く速さは遅くなった。 同じ病棟で先に入院していた小川さんよりも半月早くリハビリが終わった。小川さんは自分よりも軽傷だったがまだ入院している。こちとら人生の苦労が違う。急に日照る。暑くなる前に帰る。梅雨入りしたがあまり雨が降らない。空梅雨だと野菜が育たなくなる。U川の水位も低い。昔はここでかにを追いかけた。今はかにの数が減った。子供たちがかに追いをする姿を見なくなった。かにをつかまえるのは難しかった。それでも楽しかった。かに追いはヨシのほうがうまかった。ヨシがかにに近づくとなぜかかにのほうからヨシにつかまりにいく。自分はできなかった。ヨシはつかまえたかにを足でつぶしたり田んぼに投げたりしていた。いやだった。ヨシは一昨年肺がんで死んだ。かにのばちが当たったにちがいない。朝食。白飯。鮭。納豆。ほうれんそうととうふのみそ汁。連れ合いは畑へ。まだ畑仕事を再開できない。野菜に虫はついてないだろうか。 今日も……  

 ここまで書かれたメモが、『美味しんぼ』 第八巻の百ページと百一ページの間に挟まれていた。 第八巻の表紙には、赤々としたかにの写真が載っている。「 愛の納豆」という回の途中だった。『美味しんぼ』の続きよりも、 メモのほうが気になった。祖父の葬儀のため祖父母の家に来ていたが、両親や親族はバタバタしているし、いとこは保育園の年長と二歳になって間もない子で、特に話すこともない。怖がっているのか、向こうから近づいてもこない。寝室から『美味しんぼ』を取り、 居間に移動してこたつに入り、葬儀に参列したり、お菓子やみかんを食べたり、スマートフォンをいじったりしながら、いつの間にか八巻まで読み進めていた。

 火葬場に向かう前、「畑の記録をつけてたから」と言って、祖母が棺桶にノートやメモ帳の束を入れていた。いま見ているこれも、その一部なのだろう。畑の記録とは言っていたが、単にその日の天候や畑の状態を記録しただけでなく、祖父の日記に近い内容だったのかもしれない。いまは確かめることができない。挟まれていたメモは雑に書かれており、読みづらいところや誤字も多い。朝食のメニューに「鯉」 と書かれているが、「鯉」 を食べる話なんて祖父から聞いたことがないのでおそらく「鮭」だろう。

 相田はメモを開いてよく伸ばし、居間の畳の上に置いて、スマートフォンのカメラでそれを撮り、ついさっきまで連絡を取っていた深沢に送った。再び『 美味しんぼ』を読んでいると、深沢から返事が届いた。「なにこれ」「メモ」「なんの?」「じいさんの」「文字小さくて読めない」「美味しんぼに挟まってた」「美味しんぼ読んでるのwウケるw」

 相田は深沢から届いた最新のメッセージを既読をつけずに確認し、放置した。なんだか返信したくなかった。『美味しんぼ』の続きを読み終わってから祖父母の寝室に向かい、本棚に戻した。窓から庭を眺めると、冬枯れした柿の木がある。祖父が丁寧に手入れしていたので、食べごろになるとよく柿を貰っていた。小さいころは甘みを感じられなくて、そのまま食べるのは得意ではなかったが、干し柿にすると甘みが増すので好物だった。今では干し柿にしなくても柿をおいしく食べることができる。

美味しんぼ』が全巻あるくらい祖父は料理が好きだった。料理をするときは、祖母に対して厳しく指示を出していた。祖父が厳しいのは料理のときだけだと思っていたが、メモを見ると内心は誰にでも厳しかったようだ。お盆と正月に祖父母宅へ行くと、必ず祖父が作った料理が食卓に並んだ。天ぷら、吸いもの、煮ものなど、普段家では食べる機会の少ない料理を、祖父は丁寧に作っていた。盛り付けも上品だった。魚を捌くのも得意で、毎回新鮮な刺身をご馳走してくれた。 相田はカンパチの刺身が好きになった。カンパチがわりと高価だと知ったのはつい最近だ。いつも食べてばかりだった。祖父に料理のことを聞こうとしても、もうできない。

「仏さんにチーンして帰るよ」と母が呼ぶ。「あんたまだ制服のままだったの」と注意されたが無視した。父はもう一晩祖父母宅に宿泊すると言った。仏壇に座り、火をつけた線香を香炉に立て、りんを鳴らして目をつむり手を合わせた。菊の花と線香の煙が混じった匂いがした。「じゃあまた今度」と玄関まで見送りに来た祖母に言った。祖母の上着の裾からは肌着がびろんと出ていた。玄関の扉を開けると、冷たい風が脛に当たって、身体全体が縮こまった。外灯がほとんどなく、あたりは真っ暗だった。U川の水流の音と、木が風に揺れて葉っぱが当たる音だけが響いている。母の運転する車に乗り、狭い山道を下り始めてすぐに、U川橋に着いた。ここにいまもかにが住んでいるかどうかはわからないが、住んでいればいいと思った。スマートフォンが振動した。深沢からの連絡だった。「明日学校来る? 英語小テストあるよ」相田は深沢にテストの範囲を確認して、家に帰ってから少し勉強しようと思ったが、すぐに寝てしまった。次の日の小テストは十五点中二点だった。授業終わりに山口先生に呼ばれた。「大丈夫か?」「いえ、あの、『美味しんぼ』読んでて」とわけのわからない言い訳をした。「 はあ? まあ元気ならいいけど」と言って、山口先生はそのまま職員室に戻っていった。

 相田は十五年後の九月十日にこのことを思い出した。 パートナーがスーパーで刺身の盛り合わせを買ってきてくれた日だった。カンパチが入っていた。相田が「魚捌けるようになろうかな」と言うと、パートナーは「口だけでどうせやらないでしょ」と鼻で笑った。絶対に捌けるようになろうと決心した。