ずいぶん前から積ん読になっていた劉慈欣『三体』(早川書房、2019年)第一巻を、年末年始の休みにようやく読むことができた。序盤はなかなか頭に入ってこなかったものの、中盤以降、地球外生命体の歴史と深い関わりをもつゲーム「三体」の場面などに移ると、急に夢中になりはじめ、そのまま最後まで読み進めることができた。細かいことは色々なメディアで紹介されているだろうから詳しくは書かないが、「三体」世界内が映像化されたらとんでもない迫力になりそうだ。
新年こそは特に書くことを張り切っていこうと決意したものの、積んでいた本を読んだり、見逃していたドラマや映画を見たりしてばかりでちっとも書く気にならない。書く気にならないので別の方向から刺激を加えようと、手に入れたばかりの電動コーヒーミルで狂ったように豆を挽いている。毎朝豆を挽いていたら、当たり前だが時間はかかる。そのため、以前よりも一本遅い電車に乗るようになってしまった。
このままだらだらしていてはダメだとわかっていながらも、なかなか行動できない。そんなうじうじしているとき、いつも背中を押してくれるのは見聞きした物事で、今月は特に演劇とお笑いライブに力を得た。
ダウ90000第3回単独公演「ずっと正月」は、人と人が予想だにしない出来事で繋がるマジックが描かれていた。テンポの良い会話や固有名詞の使い方は、これまでの作品以上に磨きがかかっている。また、人間のどうしようもない戯けの部分が絶妙に切り取られている。
そして、ただ笑わせるだけでは終わらないのがダウ90000の演劇の好きなところ。物語のキーパーソンが、人と関わるための大きな一歩を踏み出していくさまが特に印象的で、非常に粋な作品だった。
そして、お笑いコンビ・ママタルトのドキュメンタリー『まーごめ180キロ』がとんでもない作品だった。
ものすごく簡潔にいえば、大鶴肥満さんのこれまでの人生やプライベートでの悪戦苦闘を、かれ自身が語るドキュメンタリー作品である。
そんな本作は、大鶴肥満という人間のおかしみ、苦しみ、憎しみを真っ向から映していた傑作であった。小中高といじめられていた体験、祖母・父親との不仲、ロシア版のmixiことBadooで裸を晒された経験など、時に見るのが辛くなる場面もあったが、それを笑いに変えていくのが大鶴肥満さんのもつパワーなのだろう。頻繁に挿入されるマクドナルドを頬張る姿はなぜか笑える。マッチングアプリで出会った女性にハンドクリームをプレゼントしたことを語る場面では、「香り」を「味」と言い間違えたまま喋りまくる。間違いに気づいてすこし照れる姿はもはや愛おしい(肥満さんではないが、かれの父親から届いた謝罪メールが官能小説のような文体だったことが個人的なツボにはまった)。普段の漫才やラジオなどでは見せない、鬱屈を原動力にお笑いの道を突き進む大鶴肥満さんの姿が最高にイカしていた。
ドキュメンタリーには登場しないものの、彼を王にすると決意した相方・檜原さんの優しさと、彼に対する肥満さんの感謝も、映像内に散りばめられており、今後ママタルトを語る上では不可欠な映像作品であると思う。
当日は見届け人として参加した真空ジェシカの茶々入れにも笑わされ、さらにコロナでリモート出演となった肥満さんの代わりに、スカート・澤部さんが登場してサックスを吹き上げたのも最高だった。
どちらも閉塞感や鬱屈を原動力に、作品や表現を作り上げていた。マイナスの感情に苦しんだからこそ生まれる何かは、同じように鬱屈している人の心を掴みとるのだろう。
夫が風呂に入っていない。
(高瀬隼子『水たまりで息をする』p.3、集英社、2020年)
書き出しにグッときて購入した高瀬隼子『水たまりで息をする』がとてもよかった。
水のカルキが臭いと言い、風呂に入らなくなってしまった夫。そんな夫とどのように生活していくか、妻・衣津実は悩みに悩む。
この作品に惹かれたのは、風呂に入らなくなった夫を糾弾するのではなく、そんな夫とどのように生活していけばよいかを考え続ける妻の姿が、切実に描かれているからだ。きつい匂いを感じ取りながらも、夫の話に耳を傾ける。夫と同じように、一時的に風呂に入らない生活をしてみる。試行錯誤を続けながら、それでも夫とともに生きていこうとする。
目を閉じると、夢に落ちて行く前のほの明るいまぶたの裏に、子どもの頃に近所で飼われていた大型の雑種犬の姿が浮かんできた。犬は、小学生だった彼女と、体の大きさはほとんど同じだった。灰色と茶色のまだら色の毛で、いつもへっへっと垂らしていた舌がでろんと長く、頭をなでてやろうと手を伸ばす彼女の腕をしきりに舐めたがった。舐められたところは熱く、唾液が乾くとくさくなったが、身をよじって逃げようとすると逆に喜んでしっぴを振り、舐め続けようと彼女の前側に回り込んでじゃれてくる犬はかわいかった。犬だって滅多に風呂に入らない。入らないけど、くさくったって、抱きしめていい。
(同前、p.31)
こうした気持ちの背景には、義母の存在があるように語られる。お互いが仕事終わりに好きなお弁当を買って食べる二人の普段の生活を聞いた義母は、「おままごとみたい」だと揶揄する。そして、風呂に入らなくなった夫に対する責任を、妻の衣津実に強く問い詰める義母。そんな義母に対して、衣津実は嫌悪感を抱く。
もう絶対に嫌だ。この世にままごとみたいな生活がひとつでもあると思っているような人と話をするのは。生きていくのが大変じゃない人なんて一人だっていないと、気付いていない人と関わるのは。ああだこうだうるさいんだ。
(同前、p.73)
日常生活のなかでは、誰しもが葛藤を抱えている。そんななかで、良い生を送れるよう、それぞれが考え、行動し、共に生きようとしている。妻が夫と共生しようとする行為には、かれに対する無償の愛情(のような感情)だけでなく、そうした想像力を欠いた人間への抵抗も含まれているのだろう。ばらばらになってしまいそうな人間の感情を、必死につなぎとめようとする衣津実の思考が突き刺さる。
また、葛藤を抱えているからこそ、時には弱さが表れてしまうことだってある。
許したくてしんどい。夫が弱いことを許したい。夫が狂うことを許したい。だけど一人にしないでほしい。
(同前、p.99)
冷酷な物事から必死に抗おうとするなかで、ふと零れ落ちた「本当の思い」に胸がいっぱいになってしまう。
その後、夫妻は衣津実の実家に近い川辺で暮らすことになる。結末に至るまではぜひ本書を読んでいただきたいのだが、淡々としていながらも力強い語りに、おおきく胸を打たれる作品だと思う。
個人的に「すごい!」と感じたのは、衣津実が幼少期、台風の過日に水たまりで拾った魚のエピソードが、要所要所で挿入されることだ。このエピソードが風呂に入らなくなった夫と共鳴し、作品の奥行きが広がっているように感じられる。この魚の名前は「台風ちゃん」で、こうしたユーモアもたまらなく好き。
20世紀アルゼンチンを代表する作家・シルビナ・オカンポの短編集『蛇口 オカンポ短編選』(松本健二訳、東宣出版、2021年)は、日常が鮮やかにぐらつく魅惑的な作品だった。複数の語りが交錯し、多層な作品世界が構築された「償い」が最も好み。寺尾隆吉が訳したものも同時期に刊行されているので、こちらもはやく読みたい。
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上参照。
単行本が高騰しており、なかなか読めないでいたところ、ついに文庫化。ようやく読むことができた。乗代さんの作品に特徴的な「書くこと」への問いの萌芽が表れていた。
上参照。
國分さんが取り上げるハンナ・アーレントの言葉が突き刺さる。そろそろ読まなきゃ。
日常を彩ることにフォーカスした作品はもれなく好き。
おれも猫の世界の銭湯でアルバイトがしたい。後半にかけてのせつなさも良い。
(了)