「ご自由にお持ち帰りください」を見つけるとすぐに飛びついてしまう。
上京1年目、自宅である家賃の安い狭いアパートの周囲にどんな場所があるのか探るため、近所をぷらぷらと歩いていたところ、お中元の空き箱の側面に黒いマジックでこの言葉が書かれていた。中を見ると、湯呑みが数点、小皿が数点置かれていた。どれもデザイン的にピンとこず、加えて茶渋や汚れが目立っていたことから、このときは何も惹かれずにその場を後にした。
その数ヵ月くらい後、友人たちと高円寺で遊んでいた際にもこの言葉を見つけた。これが当たりの「ご自由にお持ち帰りください」だった。中には渋めのネクタイ(ラルフローレンも!)など小粋なものがたくさんあり、確か友人はネクタイを持ち帰りつつ「すげぇな、落ちているものだけで生活できるんじゃないか」と言った、気がする。たぶん落ちているものだけでは生活はできない。自分もなんだかよくわからない柄のネクタイを持ち帰った、それを今でも愛用している。
この一件以来、「ご自由にお持ち帰りください」を見つけるとすぐに飛びついて、中に何が入っているかを念入りにチェックしている。が、高円寺以降、当たりに巡り合うことはなかった。
とはいえ、「ご自由にお持ちください」に入れられた使い古された道具類を見ると、きっとこの家でずうっと使われてきたものなのだろう、どうして今回これを「ご自由にお持ち」帰りいただこうと決意したのだろう、と想像をめぐらすことは楽しい。
ある日見つけた「ご自由にお持ち帰りください」の中には、未使用の調理器具(野菜カッター)があった。きっと家内のだれかが、調理担当者の負担を軽くしようと思って買ってきたにちがいない。しかし、彼/彼女にとっては包丁でやるほうが早かったのだろう。使われる機会に恵まれず、こうして「ご自由にお待ち」帰りいただくことになったのだな、とその場を後にしながら勝手にストーリーを作り上げる。そうして歩き続けていると、不思議と気分が昂揚していくのだ。
ある日、近所を歩いていると、改装中の店舗の前に多数の椅子が置いてあった。大量に置かれた椅子に近づくと、その上には長方形にカットされた段ボールがのせられている。それをよくよく見ると、「よろしければお持ち帰りください(何点でも可!)」と書かれている。まじか。前の店舗は確かイートインが併設されたお惣菜屋さんで美味しそうだと思いつつも、結局一度も利用することなく閉店してしまったのだった。そこで使われていた椅子なのだろうか、足の部分に塗装落ちが散見されるものの、決してボロボロというわけではなく、どれもまだまだ使えそうなものばかりだった。家具量販店で購入したワークチェアが体に合わず、買い替えたいと思っていたちょうどいいタイミングだ。椅子はそれぞれ足のカラーが異なっており、赤、青、緑の三つのバリエーションがあった。そのなかでも比較的色合いのよかった緑の中から、状態がいいものを肩に担いで持ち帰った。
高円寺で見つけたものが「当たり」ならば、今回のものは「大当たり」なのだと思う。幸いなことにサイズ感もちょうどよく、家の床色とも合っており、愛用の品となっている。これまでに誰かがお店で料理を食べながら喋っていたときに使っていたものが、今ではリモートワーク用に使われるなんて椅子も想像しなかっただろう。予想以上に我が家にフィットしたので、せっかくだしもう一個くらい貰っておこうと思い、次の日もお店の前を伺ったのだが、もう椅子たちはいなかった。そのお店は改装後パン屋さんになった。店内はたくさんのパンが並べられており、あの椅子たちはもちろん見つからないし、椅子が入るスペースもなさそうだった。拾った椅子に座って、パン屋で買ったカレーパンを食べた。まじでうまかった。
※以下、最近のこと。
この期間に見たライブがどれも素晴らしかった。
ジャズのレコードを集めることに夢中。特にエリック・ドルフィーの演奏に心惹かれている。500〜2000円くらいのジャズレコードを探すのが楽しい。
読んでよかった本たち。
戦争反対。
(了)