魂のダンス

書く無用人

這って考える(仮)③(2021/11/29(月)〜12/31(金)の雑記)

 過去にあった嫌なことなどを時々思い出しては落ち込んでしまう癖がついている。思い出したところで過去の行いはなかったことにならないから、ただ暗い気持ちになっておしまいになってしまう。それならば楽しかったことを思い出したい。楽しかったことはたくさんある。そう思って振り返ると、あれがこうしてこうなった、AがBしてCになった、というように、単に出来事の順を追ったテキストで思い出すことが多い。

 それはそれで端的だからいいのではないか、人に話すときに順序が整理されているとよいではないか、と思ってしまう。しかし、その時誰がどんな表情をしていたのか、だとか、天気は晴れだったか曇りだったか、だとか、周囲の景色はどんな具合だったか、などの記憶はぼんやりしているので、それはどこか寂しいものだと感じてしまう。

 

 鼻の頭を中指で、弾ませるように叩いて目をつむると、俺の中ではシャッター押したことになるねん。すごい景色とか、忘れたくないときにする。この場面も遠い遠い、自分なりの覚え方しかしてへん思い出になってしまうな。

(井戸川射子『ここはとても速い川』p.39、講談社、2021年)

 

 

 井戸川射子「ここはとても速い川」を読んだ。この小説は、忘れたくない景色や感情を、あるがままに捉えようとする真摯さにあふれている。己の記憶の頼りなさを痛感するとともに、作品自体にいたく感銘を受けたのだった。

 本作は、児童養護施設で暮らす小学5年生の少年・集の日々を描いた作品だ。年下の友人・ひじりとの日常、園のすぐそばにあるアパートに住む大学生との交流、学校での出来事。それらを集は、「夜に思い出してまとめ」ながらノートに書いていく(つまり、読者は集の書いたノートの内容を読んでいるということになる)。

 むき出しの言葉で繋ぎ止められる集の体験。語られるエピソードすべてが、大きな世界に真っ向から立ち向かっているように感じられるものばかりだ。特に終盤、ひじりが園の職員からセクハラを受けていることを、園長へ伝える集の言葉は、本作でしか生まれない強さにあふれている。

 こうしたトピックももちろんだが、個人的には集の何てことのない生活が語られる場面にぐっと惹きつけられる。例えば、集とひじりが、近所の川に生息する亀に餌をあげようと、ペットショップに入る場面。

 

上がる階段は錆びているけど、中は明るくて店員は驚く程いた。爬虫類の餌はカラフルなんとか茶色のフレークで、となりには亀用のゼリーがあって、それは凍らしてもおいしそうな薄黄色いミニゼリーや。(中略)反対側にあるカブト虫用の枯葉マットは、形の整った葉っぱが袋に詰まっている。これを敷いていないとボクたち起き上がれないんだ!と、カブト虫の写真にセリフが付いている。それは大事なことやろうに、誰も教えてくれたことないな。ひじりがノートに書き終わって、あんなん買わんでも炊いた米とかでも食うやろか、乾いたパンでもええかもと言い合いながら外へ出ると、中はきれいでもやっぱり生臭かったんやなと思った。今度川に行く時は夕ご飯のお米ラップに置いて持ってこ、とひじりが言う。

(同上、p.14-15)

 

 集の頭に浮かぶ感情をそのまますくい取り、見た景色、聞いた言葉を必死に切り取ろうとしているように感じられる一節だ。本作を読みながら、明確な形をしていないぶよぶよの言葉だからこそ、表現しうる光景や感情がある。むきだしの言葉だからこそ、描けるものがある、なんてことを考えながら、ときに微笑み、ときに涙ぐみながら読み進めた。

 

 年末に見たゆうめい『娘』(@ザ・スズナリ)は、伝聞した体験の根底にある心理を、実直に表現しようと試みた素晴らしい演劇だった。

 脚本家である夫とアニメーション作家である妻との間に、第一子となる娘が誕生することになる。互いの両親に報告する場面から転じて、物語はそれぞれの母親がどのような境遇で生きてきたかを描いていく。

 本作で中心的に語られる妻の母のこれまでが、とにかく切実な内容だった。姑の嫌がらせがエスカレートしていき、妻の母のストレスは極限までに達する。彼女はその鬱屈をインターネットの匿名掲示板に書き込むようになる。舞台の後方に映し出される苦痛に満ちた言葉たち。縦読みに込められた憎しみ。むき出しの言葉がここにもあった。

 ゆうめいの作品で変奏しながら描かれれる夫の母の生涯も、妻の母の物語と交錯しながら描かれていく。本作は、1990年代から現代までに、女性として、母として生きた人間の、表立って言葉にできなかった心の内を、舞台の上で表現しようとする壮大な挑戦である。と同時に、エンディングでは、これから生まれる娘を含む多くの人間が幸せであることを願う。そんな純真さをもつ本作を、感極まりながら観覧した。

 最近では変に文章を整えようとあれこれ考えた結果、何も書けなくなってしまうことが多い。しかし、下手くそでもいいから、まとまっていなくてもいいから、思いの丈を必死に表そうとする試みを経てこそに、何かが生まれるのかもしれない。そんなことを2つの作品を読み、見ることで考えていた。

 

 

 実家に帰らなければならない用事ができたので、約2年ぶりに帰省した。周囲の人間や風景に大きな変化などない。用事が一段落し、少しだけ時間があったため、よく通っていた本屋に寄った。

 部活のない日に本屋で音楽雑誌を読んだり、漫画コーナーをぶらついたりしたあと、隣接されたTSUTAYAでCDをレンタルばかりしていた。というかほとんどTSUTAYAにいた。5枚で1000円のキャンペーンを活用して、何を借りて何を借りないか迷い、意を決して選んだ最後の1枚が自分には全然ピンとこなかったこともあった。

 どうせ勤務地に帰るだから思い出のTSUTAYAに寄る必要などない。書籍フロアーをぶらぶらすると、当時は気が付かなかったのだが、最新の文芸本から定番の作品まで、また気鋭の人文書から地域関連の書籍まで、手広く扱っていることに今更気づいた。

 若き無知の失態をカバーしたい気持ちが増したので、何か本を買うことにしよう。店内を物色していると、ここ最近愛読している津村記久子さんの新刊『現代生活独習ノート』(講談社、2021年)を発見したので、こちらを購入することにした。

 津村記久子さんの作品は、生活のなかで感じる違和感やおかしさを、冷静な真顔でじっと見つめながら、まあそれも悪くはないかといった具合にけろっと肯定するから好きだ。偶然録画されていた緩いローカル番組、母と娘の冷蔵庫陣取り合戦、俗に言う「映えない」食事ばかり載せるインスタグラム、腹を立てて資料室に閉じこもる同僚にまつわるあれこれ、架空の街の地図と歴史作りをきっかけに進む中学生の交流。些細な出来事に起因する感情の起伏を軽やかに描く、なんとも魅力的な一冊だった。

 

 

 12月はM-1グランプリが開催されるということもあって、お笑い熱が高かった。特に今年に入ってから再びラジオを聞き始めた真空ジェシカが、決勝の舞台でも活躍したので嬉しい限りだ。去年の緊急事態中は「ラジオ父ちゃん」を聞いていたものの、仕事が忙しくなるにつれて聞けなくなり、いつの間にか番組が終了していたのを残念に思っていた。が、Podcastで復活したのと同時に仕事も落ち着いたので改めて聞けている。嬉しい。冒頭の「ともはるさん」のコーナーからフリートーク、企画まですべての流れがツボだ。もちろん漫才も大好きで、決勝で「理系のおばあちゃん」というワードが出たときには大声で笑った。

 錦鯉の漫才はもちろんのこと、個人的にはモグライダー、ランジャタイ、ロングコートダディのネタに大いに笑った。敗者復活戦では、ヨネダ2000、男性ブランコの漫才が好きだった。十代のころにM-1YouTubeなどで配信されていたら、きっと何もかもほっぽりだして、そればかり見ていたにちがいない。何か大きな勘違いをしてお笑いを志していたのかもしれない。