魂のダンス

書く無用人

這って考える(仮)②(2021/11/15(月)〜11/28(日)の雑記)

 夜、歯を磨きながらこいた屁が激烈に臭い。温泉地で嗅ぐ硫黄のような、卵の腐ったようなにおいだったのでえずいた。前日まではいたって普通の食事を摂っていたし、ましてや期限切れのものなど食べてはいない、それに最近は自炊に凝っており、食生活は以前よりもむしろ好転しているだろう。それなのになぜこんなにも屁が臭いのか。

 もしかすると内臓系の病気なのかもしれない。そんな恐ろしい予感は早急に拭い去りたいので、Googleで「屁 腐卵臭」と検索し、一番上に出てきたページを熟読する。どうやら肉などの食べ過ぎによる悪玉菌の増加、麺類を啜るとき一緒に飲み込んでしまう空気、日常生活におけるさまざまなストレスなどが原因らしく、小さなことも含めれば心当たりがあるものの、直接的な原因としてはどれもいまひとつピンとこない。

 当日中の解決は諦めて一晩眠り、労働し、帰宅後トイレで大をしたところ、またしても激臭がする。こうなるとおれはもうだめなのかもしれない。

 絶望的な気持ちで洋式便座に腰掛けているときに思い出したのは、「昆布、ひじき、わかめ、納豆……バーン! ヨーグルト!」歌手のときには卍LINE、MV監督としては空水こと窪塚洋介の泥酔インスタライブの一幕である。腸に良いものについて手のアクション付きで語る窪塚の姿を、以前はにやにやしながら見ていたのだがもう笑うことなどできません。自分も腸活に取り組むときがきてしまったようだ。

 窪塚のおすすめ食材はもちろんのこと、薬局で整腸剤も購入し、毎日必ず摂取するようにしている。おかげさまで数日後に腐卵臭は取り除かれ、いたって普通の屁の匂いにまで回復できた。神様仏様窪塚様である。

 腸の動きがよいからか、日中もやけに屁がこきたくなる。在宅勤務中ならば自室で存分にこけばいいのだが、出社時になるとそういうわけにはいかない。腹に空気が溜まった感覚が増すとトイレに駆け込み、用をすると見せかけそーっと屁をこく。会社のトイレは音が聞こえないよう配慮されているからか、メーンフロアから一歩外れた階段付近にあり、中に入ると外の音はほとんど聞こえない。安心して屁がこいていたある日、トイレ近くのフロアにあるコピー機が微かに「ピローン」と鳴る音が聞こえた。ゾッとした、もしかしたら(まれに出る爆音の)屁が外に聞こえていたのではないか。付近に在籍している社員から、

「あの人がトイレ行くと、いっつもおならの音がするね」

「毎回大きいほうでもしてんじゃない。めっちゃ快便じゃん(笑)」

「いい大人がおならばっかりしてるなんて、恥ずかしくねぇのかな」

などといった会話が繰り広げられていたら、もう会社になんていられない。

 そのため、コピー機で書類を印刷しながらトイレの音がどれほど聞こえるか独自調査する羽目になり(幸いなことにトイレの中の音はほとんど聞こえなかった)、妙な汗をかくことになった、これもすべて腸内環境が悪いせいである。

 

 それなりに真面目に働きながらも、こんなくだらないことを考えている日々のなか、読んでいたのは偶然にも社会人生活について描かれた柴崎友香の『フルタイムライフ』(河出文庫、2008年)だった。 

 本作は美大のデザイン科を卒業した後、機械系の会社の新入社員として働く主人公の1年が語られる。不慣れな社会人生活や平素における友人との交流などを重ねる毎日のなか、仕事とプライベートの双方で生まれた思考を実直に描き、加えて同僚、上長、友人などの考えにまで徐々に輪郭が与えられていく書きぶりにはとても好感がもてる。終盤、友人が出演するライブを見た際の語りは、本作に通底する観念のようなものをぴしっと表現しているように思える。

 

わたしは、こうやって篤志を見ているのも好きだし、今日みたいに準備から手伝ったりフライヤーを作ったり、そしてこの音の中にいることも好きで、その好きなことをちゃんとできている。会社に行って仕事をして、毎月給料をもらってボーナスももらえて、どれでもなんでもっていうわけじゃないけど好きな服も買えるし、イギリスに旅行に行こうかとも思っている。それはとてもいいことだと、たぶんわたしは知っている。必要なのはなにかするべきことがあるときに、それをすることができる自分になることだと思う。桜井さんみたいに。樹里と篠田くんとTシャツを作るのも楽しそうだし、また会社に行って桜井さんや長田さんと仕事をしながら組織改変に文句をつけたりするのもきっと楽しい。きっと、それでいいと思う。(p.200)

 

 自分が新入社員のころ(とはいってもついこの間のできごとなのだが)、仕事には慣れないながらも、プライベートはライブに行ったり映画や観劇を見たり友人と遊んだりできたからそれなり刺激的で、いま思い返せば双方のバランスが良い方向に作用していた毎日を思い出しながら(時には反省しながら)読んだ。解説で山﨑ナオコーラさんも挙げているように、常務と電車に乗る場面が自分も印象に残った。同僚からは苦手意識を持たれている常務とどんな会話をすればいいのかわからない。そんななか常務が近隣の野球場にまつわる思い出を話したことから、語り手は彼のこれまでの生活に思いを巡らせる。

 

常務が何歳なのか正確には知らないけれど、わたしが生まれる前からエビス包装機器に勤めているはずで、そんなに長い間同じ会社に通い続けるってどんな感じがするもんなんやろうかと思った。常務という役職について、ただの取締役よりは偉くて専務よりは偉くないというくらいにしかわかっていないわたしだけれど、三十年くらいのあいだに大きい仕事や揉め事もたくさんあって、それから結婚したり子供が野球をしたりして、そういうことがずっとつながって今は常務なんだと思った。そういうのは今のわたしには実感はなくて、ただ単純に人生の長さみたいなものに感心しただけなのかもしれないけれど、自分はまだここの会社を覗いてみてるだけで仕事らしいことはできていないという気持ちになった。(p.128)

 

 普段は交流のない役職の社員にもその人固有の生活を経てきたこと、そして自分自身が未熟なことを認識すること、こうした思考が会話から生み出され常務が「もうそろそろ仕事には慣れましたか?」と聞く場面で終わること、この一連の流れには、本作を読んでいるときに訪れる、心がふっと解される感覚が満ち満ちているように感じられ、何度も読み返している。穏やかな風のようでいながら、時に壮大なスケールを見せる柴崎さんの作品にはずっと夢中である。

 

 ややベクトルは異なるが、壮大さを感じたものといえば、Dr.holiday laboratory『うららかとルポルタージュ』(@北千住BUoY)だ。未来のVR空間に取り残されたアバターたちの声と動きは、自分の理解できる範囲を逸脱しており、ただただ恐ろしく、困惑した。見終えたあともまだ頭の回転が追いついていなかったのだが、じわじわとあの空間の異様さとアバターたちの声と動きがリフレインされる。アバターたちの動きはこの世のものではない様相を表現しており、発せられる断片的な言葉もぎりぎりのバランスで意味が通っていないものが多かった。現世には存在しない取り残された生命を、この世に繋ぎとめようとする試みにも感じられる。生きているのか死んでいるのかわからない事物の動きをただじっと眼差していると、私たちが平素から発する言葉や動きがはたして生きていると言えるのだろうか揺さぶられる。ドープな音楽や不穏さを演出する舞台芸術も印象的で、当日その場で戯曲を買わなかったことを後悔している。

 

化身 私は死ぬということをついにして予言されないまま死んだらしい。そう言われて悲しくない人なんているだろうか?(戯曲の一節。公演ポスターより引用。)

 

 ジャンルは異なるものの、ふたつのラジオイベントの配信もすごくおもしろかった。

 「佐久間宣行のANN0 Freedom  Fanfare」、作り手でもある人が表に立って楽しそうに喋っているのを見ているだけで楽しい。チュロスを上げ下げゲームなどくだらない企画もたくさんありつつ、佐久間さんの一人喋りも劇団ひとりとのトークもすべてがおもしろかった。

 「空気階段の大踊り場」、はしゃぐふたりの姿が微笑ましい。岡野さんが登場することでどことなく下衆感が高まるのもいい。シークレットゲストの東京03・飯塚さんは、過去にはクズでヒモだった時期があったらしく、いまはしっかりしている人でも何だかダメな時期というのはあって、そこから右往左往継続したからこそいまがあるのだと思うと変にぐっときてしまう。ちなみに一番笑ったのは、サラリーマンじゃない人川柳コーナーに寄せられたサイコメール(「13歳真夏の大冒研ナオコ」)だった。その後放送された「空気階段の踊り場」も聞く。もぐらさんが団地に住んでいたころに遭遇した鳥を踊らせようとするおじさんの話にはとても笑った。

 そういえば思い出した。どこの田舎には変なおじさんがいるもので、小学校高学年くらいのころ友人たちと遊んでいると、

「おっちゃんと一緒にぃ、幽霊屋敷ぃ、探検しに行くかぁ」

と誘ってきた地元のおじさんがいたのだった。そのおっちゃんの近所に住む友人によると、だいたいランニングシャツにステテコを身に纏い、でかい柴犬を散歩させ、その柴犬には残飯を食わせ、時にはミニバイクで近隣を乗り回すファンキーなおっちゃんだったらしい。今思えばどこまでが本当でどこまでが嘘かわからないものの、遊んでいる小学生に近づき突然声をかけるという行動をするくらいだから、友人の話には妙なリアリティーがあったのも事実だ。

 おっちゃんが連れて行こうとした幽霊屋敷はいったいどこにあったのだろうか。おっちゃんが子供のころからその幽霊屋敷というものがあって、かつておっちゃんが子供だったころには頻繁に遊びに行ったのだろうか。おっちゃんは今でも近隣の子供を幽霊屋敷に誘っているのだろうか。なんでおれはこんなにおっちゃんのことを思い出しているのだろうか。(了)