魂のダンス

書く無用人

這って考える(仮)(2021/11/01(月)〜11/14(日)の雑記)

 今年に入ってから創作にチャレンジしようと思った。思ったものの日々継続するのは難しい。書いては消し書いては消し、今日こそは進めようと思っても仕事で疲れたので寝てしまう。定期的に三日坊主となる自分が嫌になってきたタイミングで、文芸作品によるプロアマ混合のオープントーナメント「ブンゲイファイトクラブ」が開催されると知り、自分を奮い立たせる良い機会になるだろうと思い応募した。そのために雑記をなかなか更新できなかった。

 結果は落選。原稿用紙6枚のなかに色々詰め込もうとしすぎたし、細かな文章の技巧や動きも未熟で、加えて既存の型にはまっている印象が強い。結果は納得である。しかし読み返すと所々悪くないのではと思える点もあるので、なんだかやれそうという無根拠な自信ができたことも事実だ。実際に感想を伝えていただいた方もいたので、読者がいることは(加えて感想まできちんと言ってくれることは)何ともありがたいことか。

 ただ、正直な思いは「悔しい」に尽きる。あれこれ考えた文章が未熟であることを結果として突きつけられてしまった。しかし、はじめからうまくいく人など(いるかもしれないが)そう多くはないだろう。このあたりは体育会の部活でしばき倒されながらも結局は続けていった人たちが皆身体も心も強かったことを知ってるからか、それとも根が楽観的でポジティブな心性であることからか、すっと切り替えることができた。あれこれ考えながら日々積み重ねていくしかない。

 最近は新庄剛志日本ハムファイターズの監督に就任したことを嬉しく感じる。現役時代から派手なパフォーマンスの裏にある実直に努力する姿に惹かれて応援していた。今回の会見でものっけから吉井和哉みたいな格好で登場し、自己紹介の際に決めポーズ(からの耐えきれなかった笑み)をしたのには吹き出してしまったが、会見内容はいたって真っ当で、目標などは立てずに毎日練習に取り組むことの重要性を述べた件が特に印象的だ。

 

「優勝なんか、一切目指しません」「高い目標をもちすぎると選手っていうものはうまくいかないと僕は思っているんですよ。1日1日、地味な練習を積み重ねて、シーズン迎えて、それで何気ない試合、何気ない1日を過ごして勝ちました。(中略)それで9月あたりに優勝争いをしてたら、さあ!優勝目指そうって(中略)そういうチームにしていきたいなと。」(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211104/k10013334271000.html

 

 己を高めるために淡々と日々過ごすこと。当たり前のようだがこれは非常に難しいことで、こうした生活のなかで自分を高めるために必要な認識が、新庄の口から改めて発せられることを嬉しく感じる。

 文筆というものは決まった鍛錬の方法などないだろうが、ああでもないこうでもないと書きながら、少しでも自分が高まっていくような、世界に対する認識が深まっていければいいと思う。愛読している保坂和志の小説論の本でもそんな記載があったはずだ。最近氏が開催している「小説的思考塾」にも参加するようになった。有料でクローズドな空間なので詳細は書かないが、型にはまった書き方ではなく、読んでいる側が次の一文が気になってしかたがないような、言葉と言葉が運動しているような文章を自分ももっと書きたいと思えるオンラインミーティングなので、少しでも興味のある方は視聴してみるとよいかもしれない。

 保坂和志からは多大な影響を受けているので、動くことの面白みというのは、脱線や逸脱にも近い面白みだと考えていている。それを体現している! と感じ、毎日少しずつ読んでいるのが、柿内正午『プルーストを読む生活』だ。毎日プルースト失われた時を求めて』を読む読書日記の側面だけでなく、筆者が他にも併読している本からの引用やそこから考えたこと、また日々の生活のなかにおける思索などが書かれている。通読というよりも毎日気になったページを少しずつ読んでいて、今回の雑記のようにあれこれ脱線しながらも考えるというスタイルは、本書から多大な影響を受けている。筆者のように読み、書いて、考えていきたい。読んでハッとし、それを書いていくと、ああ自分はこんなことを考えていたのだな、とか、過去にした発言や行動を省みてウウ……っとなる。しかしこれも未熟ながら少しずつ前に進めているような気がしているのでとにかく継続である。

 ただし、ただ「書く」とは言っても、個人的にはもう少々「伝える」努力が必要なのかとも考えている。根気強く文章と文章をつなげていこうとするのだが、時折省略をしすぎてしまうことがあり、読んでいる側、とはいえ想定されるのはもう一人のボクや友人たちが中心となるだろうが、彼らが読んでいて少しでも興味深く感じられるような工夫が必要だ、と感じたのは、北村紗衣『批評の教室ーーチョウのように読み、ハチのように書く』(ちくま新書、2021年)を読んだからだ。

 「作品を楽しむための方法としての批評」を提示している本書は、基本的なスタンスから実践まで、大学生のころの自分へ推薦したい一冊だ。もちろん今の自分にとっても推薦したい。というのも、上に少し述べたように、「楽しみを他者と共有するための批評」というものがあまり得意ではないと感じているからだ。

 個人的にはよかったなーとか、これはたくさんの人に知ってもらいたいなーと思って必死に分析したり、何かを喋ったり書いたりするのだけれども、どうもうまくいっていないように感じられることが多い。具体的に事例をあげろと言われると難しいのだが、なんとなくの実感でそう思ってしまう。

 「自分がおもしろいと感じた物事に関する主張に反応がないくらいで、くよくよするんじゃない」と言われてしまいそうだが、必死で考えたことに何のリアクションがないとそれはそれで寂しいものだ。

 なので、自分のもやもやと最も共鳴したのは、第三章の「書く」である。筆者はオスカー・ワイルドの批評論を引用しながら、批評することそのものも芸術であると述べる。

 

あなたが書こうとしているのは、クリエイティヴな能力が最大限に活用されるひとつの芸術作品です。(p.134)

 

 この一文は自分にとって、非常に励みとなるものだった。続けて、具体的な批評の切り口の絞り方や読み手に情報を丁寧に提示する必要性など有効的な手法が述べられた後、「批評はコミュニケーション」であるため、相手を意識しながらどうすれば伝わるのかを工夫する必要があると述べている。(p.169)どうしても忘れがちな観点を改めて認識するきっかけとなったので、「伝える」という観点は常に念頭に置いて書き続けていきたい。

 ここ数週間はようやく友人と直接会って話せる機会が増えた。画面上とは違い、実際に目と目を合わせて呼吸をみながらコミュニケーションすることが、自分にとって大切だったことを痛感している。会って、喋って、笑って、何を話したのかはよく覚えていないこともあるけれど、楽しかった、また会いたいと思う気持ちが持続する瞬間を久しぶりに感じることができている。

 日々というのはそういった瞬間の積み重ねで、これらをしっかりと描いているなと感じているのが、今期からNHKで放映されているドラマ『阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし』だ。女性コンビ・阿佐ヶ谷姉妹による同名のエッセイを原作としたドラマで、二人の何てことのない日常(それは例えば寝起きに朝日を浴びたを瞬間に顔がギュッとなること)を丁寧に映し出している。どたばたとしたコメディタッチ(そういうのを見るのも好きだけれども)にせず、淡々と阿佐ヶ谷姉妹の生活を描いているので、二人のキャラクターや人間味が存分に伝わってくる作りになっている。それにしても、木村多江安藤玉恵の演技は、そっくりというよりも、もはや阿佐ヶ谷姉妹の生霊をそのまま降ろしてるんじゃないかと思えるくらいすごい。

 降ろし漫才といえば、オードリー(春日さんはつい数年前まで阿佐ヶ谷在住だった)なのだが、最近の『オードリーのオールナイトニッポン』が自分のツボをキュッと押してくれる。毎週楽しみに聞いているが、お二人が人と暮らすようになってからの成長や気づきのようなものが自然に発話されていて、頷きながら笑っている。星野源のANNチームや若林さんのバイトの経験から、朗らかな環境を作れるリーダーこそが偉大だという若林さんの発言には同意した。時折こうしたアニキ感を出すラジオになるが、アニキ感を茶化しながらも、やってる本人たちが楽しんでいるからこそおもしろいのだ。

 あとは、あれこれ読んでいるものを記録してから終わりにしよう。

 先の「ブンゲイファイトクラブ」の本戦通過作品を読んでいるなかでは、左沢森『銘菓』がとてもよかった。短歌は雅美文的なものなどはまだあまり理解が追いついておらず、言葉と言葉が結びついて驚きを生み出すマジックや、捻くれた思考などが詠われているものが好きだ(似ているジャンルでも、俳句を読むときは、どちらかといえば想起されるイメージの瑞々しさを重視している)。

 

ばかだから下北沢の駅前に面影を見るくらいしかできない

 

 冒頭「ばかだから」で始まりこちらを引きつける技巧がいい。そして「下北沢」と「面影」からは、かつて親しくしていた何かへの憧憬と、「くらいしかできない」で自己卑下の心象が描かれる。ピュアな心持ちともうだめだ……な諦念が混じりあって嘘のない奥行きが生まれているように感じる。

 

実際わたしは道を聞かれることが多くその何倍のひとが昼に出る

 

 ここでも「実際」という出だしが効いている。「昼に出る」とは一体どういうことなのだろうか。バイト?シフト勤務?ともかく、「わたし」が認識している多さと、あまり多数派とはいえない勤務形態の人々は、後者のほうが断然多いというギャップを掬いとっているから好感をもてる。

 

ただの子供が歩いているだけの映像に音がつく 誰かのおかげじゃないぜ

 

 初めに読んだとき、the pillows「Funny Bunny」が頭に浮かんだ。自分の精神の根幹にはthe pillowsの音楽からの影響が根強いので、これだけでもグッときてしまう。SNS等にアップされている動画のことを指しているのか定かではないが、これも決して「誰か」のおかげなどではなく、アップした人物が自ずから行ったものである。そう考えると、「誰かのおかげじゃないぜ」という言葉のもつ意味が反転しているようにも感じられるのでおかしい。

 時期がきた!と思い、パク・ソルメ『カステラ』を読んでいる。激しい競争社会に乗り切れない語り手の鬱屈だったり、困惑だったり、ど根性だったりが、マジックリアリズム的発想を用いて、ユーモラスに描かれている。内容の重みと文体の軽みが絶妙なバランスで、次は『ピン・ポン』を読んでみようと思う。

 漫画だと、たらちねジョン「海が走るエンドロール」がよかった。夫に先立たれた65歳の女性・海子さんが映画制作に取り組むという物語のつかみにもしびれる。しかしそれだけではなく、映画好きの夫との思い出や、そこで映画を見る人々の姿をついつい見てしまう海子さんの姿を描いており、映画制作に向かう動機づけに破綻がない。沸々と湧き上がる創作欲だけでなく、創作することによる周囲とのコミュニケーション(またそこにおける齟齬)ももうひとつの軸になっており、単なる「遅れてきた青春漫画」にならない奥行きがある。

 こういった作品を読むと、メインとなるテーマだけでなく、それに沿うような別の線がいくつもあるほうがぐっと惹きつけられる。とにかくこれから海子さんがこれからどのように映画を撮っていくのか、先が気になる作品だ。

 音楽を聞くことは以前に比べると減っているが、最近ではLe ren『Leftovers』をよく聞いている。Joni Mitchellらのシンガーソングライターを彷彿とさせる、静謐な美しさを携えた音楽で、毎朝通勤前に聞き入ってしまう。BIG LOVE RECORDSでゲットしたレコードを休日の朝に聞くのもまた良い。(了)