魂のダンス

書く無用人

タートル・トーク(2022年10月30日公開)

 結婚式に来たのははじめてだったが、新郎新婦とその両親以外、 知っている人は四人しかいなかった。 新郎新婦は小中学校の同級生である。中学二年生のころ、 思春期のせいでうわついていたからか、 ふたりはいつの間にか付き合いはじめ、 いっしょに登下校するなどしていたが、 周囲も知らないうちに別れた。中学卒業後は同じ高校に入学し、 なぜか再び付き合った。 時には大げんかをして破局の危機に陥ったが、 互いを思う力で困難を乗り越え、ようやく結婚に至った、 という内容を披露宴の司会がドラマチックに語った。

 地元は過疎地域で、同級生は十六人しかいない。 互いの両親の顔までわかる関係であるにもかかわらず、 特別仲が良いわけでもない。成人式前後に連絡を取ったきり、 音沙汰なしの状態が続いたが、 彼らの結婚式の招待状が同級生全員に送られたことで、 久しぶりにグループラインが動いた。 特段イベントごとでもないかぎり、交流のない疎遠な間柄である。

 唯一、今でも交流のある同級生・ヨシノと、 乗り気ではないが結婚式を一目見てみたい、 ということで意見が一致し、参加することにした。 披露宴で同じテーブルにいた同級生はヨシノだけで、 ほかの席は新郎新婦の高校の同級生が座っていた。 我々は違う高校に通っていたので、彼らとは初対面だった。 外交辞令でもしようとしたが、彼らだけでずうっと話しており、 こちらへ意識が向くことはなかった。 式は新郎新婦の高校と大学の友人が多く、 出席者の少ない中学までの同級生は居心地が悪かったにちがいない 。披露宴の最中、新郎新婦と関わりの深い人たちが挨拶をしたり、 新郎新婦によるケーキ入刀が行われたりしているあいだ、 ヨシノは何をしていたかというと、常時飲酒していた。

 そもそもシャトルバスに乗り遅れ、 親の運転する車で式場に到着したときから顔はほんのり赤かった。 普段は仕事の愚痴をしゃべりまくるのがお決まりだが、 式場に到着してからのヨシノは珍しく無口だった。 赤ら顔のヨシノは心ここにあらずといった様子で、 周囲の盛り上がりもお構いなしに、黙って酒を飲み続けていた。「 何かあった?」と声をかけても、「別に」 と言って飲酒を再開した。平素とは明らかに様子が異なるので、 きっと仕事で嫌なことでもあったのだろう、と思っていた。

 披露宴は大いに盛り上がって終了した。新郎の大学の友人による、 新郎新婦最大の危機とそれを乗り越えるまでの過程をミュージカル 風に描いた寸劇で、会場はどっと沸いた。 新婦から両親へ宛てた手紙を読む場面では、 周囲から鼻を啜る音が聞こえてきた。 そんなときでもヨシノは常時飲酒していた。 披露宴が終わったあと、ヨシノは足早に式場を出て、 送迎バスに乗り込んだ。 当初の予定ではふたりとも二次会に参加する予定だったが、 ヨシノといっしょに帰ることにした。

 ほとんどの参加者が二次会に参加したので、 バスには五人くらいしかおらず、 ヨシノは後ろから二列目の窓際の席に座り、 外に植えられたピラカンサの赤い実を見ていた。 隣に座っても何かを思いつめた表情で黙っている。 あと十分もすれば駅に着くタイミングで、 ヨシノは突然話しかけてきた。

「うちに亀いたの覚えてる?」「え?」こちらの驚きを遮って、 ヨシノは再び聞いてくる。

「覚えてる?」「いたような、 いなかったような」「いたよ」「そうだったっけ?」「二匹」「 二匹も?」ヨシノの家に行ったことはあるが、 亀がいたことはまったく覚えていなかった。

「昨日仕事から帰ったら、 おばあちゃんが亀が逃げたって騒いでて。水槽確かめたら、 ほんとに一匹いないの。水槽には蓋してたし、 逃げるスキマなんてどこにもないのにね。 家の中も外もかなり探したけど、どこにもいなかったらしい。 弟が小さい頃に何かのお祭りで掬ってきた亀なんだけど、 飼うのは途中で飽きちゃって、代わりにおばあちゃんが育ててた。 世話し続けてたらおばあちゃんも愛着が増したみたいで、 今回の件は相当ショックだったっぽい。でも、 こちとら付き合ってた人に突然振られたあとだったから、 それどころじゃないんだよ。騒ぎたいのはこっちだよ。 明日また探そうね。ね? なんて適当になだめて、部屋に直行。 コンビニで買った酒をぐびぐび飲んでたら、寝落ちしちゃって。 で、夢を見たんだよ。家の入り口の前で手に亀を乗せて座ってた。 弟がお祭りで掬ったときくらいの小さい亀。そしたら、 どーんどーんって地面が揺れはじめて、 右の方から一軒家くらいの大きな亀がゆっくりとこっちに向かって 歩いてきた。手に乗った小さい亀はぷるぷる震えていた。 大きな亀は玄関の前まで来て、こっちを見てからぼそっと『 酒は口より入り、恋は目より入る』って言って、 そのままどっかへ行っちゃった。 手にいた小さい亀もでかい亀に付いて行こうとするから、『 待って!』って呼び止めようとした瞬間に目が覚めた」

 ご乗車ありがとうございました、という運転手の声がした。 窓の外を見ると、駅の名前が光っている。「 バス降りたあとで詳しく聞かせて」とヨシノに伝えて外に出ると、 昨夜に引き続き小雨が降っていて肌寒かった。 駐車場にいると濡れてしまう。 バスから降りたヨシノをどこかに誘って話の続きを聞こうとした瞬 間、ヨシノは突然歓楽街に向かって走り出した。 止めようとしたけれど、その必要はなかった。 ヨシノは歩道と車道の間の段差に足を引っかけてこけたのだ。 慌ててヨシノの元へ駆け寄ると、うつ伏せのまま「うー」 と唸っている。「大丈夫?」と声をかけると、仰向けになって「 なんでや!」と叫んだ。 ヨシノの声に驚いた通りすがりの老人がこちらをじっと見た。  関西出身でもないのに何で関西弁? とつっこもうとしたけれど、今日は止しておこう。

 

初出:ブンゲイファイトクラブ4 本戦出場作品

BFC4 1回戦Aグループ|ブンゲイファイトクラブ BFC

ボルゾイがじつと見ている

 連日の過度な食事、飲酒が祟って、サマーソニックBlurを見ている途中で急激に具合が悪くなった。調子に乗って移動中に何杯目かわからないビールを飲んでしまったからかもしれない。7月の中旬からずうっと食べまくり飲みまくりだったのだから、さすがの胃も限界を迎えたのだろう。幸い三曲分ほどスタジアムの外で休憩をしたら大分具合も良くなり、その後のライブを存分に楽しめたからよかったものの、この日以降胃の具合がよろしくない。

 昔から胃が弱かった。小学五年生のころ、ミニバスケットボールの試合で勝てるはずだった相手に負けてしまい、ショックで試合終了と同時にコート上でゲロが出た。当時はコーチにも上級生にも怒られてばかりだったから、そのストレスもあったと今は思う。諸々落ち着いたあと、父か母どちらか忘れたが、お前のゲロを◯◯先生が拭いてくれてたぞ、と言ってきた。◯◯先生は普段は寡黙だが、怒ると怖かった。今回も◯◯先生に怒られるかと思ったが、◯◯先生は何も言わなかった。私がコートに吐いたゲロを、◯◯先生が雑巾で黙々と拭いている後ろ姿を、見てもいないのに見たことがあるように感じてしまうのはなぜだろう。

 話を戻すと、サマーソニックが終わったあとも胃の調子が優れない。同僚との食事会でも調子が悪かったのでさすがに病院に行ったところ、逆流性食道炎が悪化しているとのことだった。元々その傾向はあったが、今回は極度なストレスを感じる場面も減ってきているので、それが原因ではない。間違いなく遊びすぎた結果なのだからしようがない。しばらく酒を控え、食事量を抑え、服薬することでようやく落ち着いてきたのでほっとしている。

 

 

 最近は山下澄人さんの『俺に聞くなよ』を読んだり、そこから山下さんの読んでいなかった作品を読んだりしているうちに、自分の考えが鍛えられていくので楽しい。胃酸の逆流以外ではちょっとやそっとじゃ動じないぜ。私の中で、物事を考える指針というか、軸となるものというか、とにかく土台のようなものがしっかりとしてきたように感じられる。スポーツで例えると、ようやく基礎トレーニングの動きが身についた感覚。それはいったいなんなんだと言われると、抽象的かもしれないが実際にしゃべることはできる。ただし、書くのはもう眠たくなってきてちょっと大変だから止しておきます。

 振り返ると、これまで挑戦していなかったことがたくさんある。自信がないからだとか理由を言えば何個でも挙げられるが、その全てがぼんやりとした罠にひっかかったために生まれた考えでださい。ださすぎる。とにかくやってみればいいだけだ。うまいも下手も関係ない。年齢だって歴だって関係ない。

 先日町中を歩いていると、お祭りが行われていた。ぶらぶらと眺めているうちに人混みに疲れてしまったので、すぐに家に帰って仮眠をとった。起きてすぐになぜか俳句が浮かんだ。  

 

ボルゾイがじつと見ている秋祭

蜻蛉には止まりやすき扁平足

皮付きの二十世紀が大皿に

 

 この句がいいのかどうかよくわからないが、浮かんだものは残しておきたい。最近はそんなふうに考えている。

山と海

 はじめてのデイキャンプに選んだ場所は料金が安いわりにスペースが広く、近くに川もあった。川に足をつけると冷たい。川底の石は苔やら泥やらでヌメヌメしていて足場が安定しないので、川縁の大きな石に腰をかける。しばらくすると足のまわりに小魚が何匹も泳いでいる。小魚が自分の足をちょんちょんとつつく。くすぐったいがぎりぎり我慢できる。テレビでドクターフィッシュがたくさんいる水槽に足を浸した芸能人が、不快な表情で我慢しているのを見たことがあるが、実際つつかれてもそこまで不快じゃない。小魚には申し訳ないが、川縁を歩きたくなったので、これで失礼することにする。川縁は大きめの石と小さめの石が混在していて歩きづらいのだけれど、手でバランスをとりながら、近くの岩に手をつけながら、少しづつ前に進んでいくだけで、全身を使って歩いている充実感がある。川縁を抜けてキャンプ場に戻ると、家族連れ、ペット連れ、おひとり様などが、肉を焼いたり食べたり、寝たり、焚き火をしたり、バトミントンをしたりして、好き勝手に楽しんでいる。椅子で寝ている女性の上に、1歳くらいの子供も座っていっしょに寝ている。その横のテントを見ると、メッシュ生地の奥に、3、4歳くらいの男の子が寝ている。全裸だ。全裸の子供を銭湯以外で久しぶりにみた。保育園で全裸で遊んでいる子がいて、その子は保育士さんに怒られて無理やり服を着せられていた。実家は海に近いので、すっぽんぽんで泳いでいる子もいたような気がするが、それはテントで全裸で寝ている子を見たから、記憶ちがいかもしれない。海水浴シーズンに実家に帰ることなんてほとんどなく、夏真っ盛りのときに海を見たのはもう15年くらい前になる。そのときの詳細なんて覚えているわけがない。実家に帰るタイミングはお盆前後で、祖母がお盆前後になるとクラゲが出るから海に入らないほうがいいと言っていた、それを無視して海に入ったいとこのリョーちゃんは右ふくらはぎ全体をクラゲに刺されて、ひどいぶつぶつができていた。それを見てからお盆に海水浴をするのは辞めた。そもそも海に入るとものの数分で唇が紫になり、次第に体温が下がり、具合が悪くなるのだから、好きではなかった。山は川で長時間泳ぎさえしなければ、ごろごろしているうちに体温が上がる(よほどの悪天候でない限り)。最近買ってみたテントを張って、山で昼寝をしたら、気持ちがよかった。全裸にはならなかった。

無題(0410-0508の雑記)

 規則正しく過ごしてやろうと決意した大型連休だったが、結局のところ朝は遅くまで寝て、最近ハマっているYouTubeチャンネル「エルコレ〜歌舞伎超TV〜」を見て、飯を作ったり注文したり酒を飲んだり二日酔いになったりして銭湯に行くような日々だった。だらしがないとしか言いようがない。4月をもって完全に仕事が落ち着いたので、せっかくの連休を、遠出して苦手な人混みのなかで右往左往するよりも、家付近でまったりしたほうがよいと思い、今回は近所ばかりで過ごした、その点でいえば本来の目的を達成したとはいえるが、実際はHDDのなかに眠り続けている「鎌倉殿の13人」を見たり、Netflixで「ブレイキング・バッド」の途中を見たりしたかったのだが、それらには手をつけることができなかった。唯一進んだことといえば、小島信夫「寓話」を読むことなのだが、長編集成版の300ページを超えたあたりで図書館の返却期限が近づいてしまい、目標にしていた読み切ることが叶わなかった、一度返却してもう一度借りる手続きをするしかないがその手間はぜったいに行う、なぜなら小島信夫は本当におもしろいからだ。

 このおもしろさをまだ十分に言語化できないのだが(小島信夫の作品は、作品そのものが常におもしろいのだから、是非読んでみてくれとしか今の自分にはいいようがない)、「寓話」という作品は語り手(小島信夫)がかつて小説のモデルとした人物から手紙が届く、その途中からは暗号文になっており、語り手は解読にいどむ(この手紙がめちゃくちゃ長いことがまずおもしろい)というのが大まかな内容だ。その暗号文の解読を進めるうちに、連載を読んだ人(森敦ら)から電話がかかってきたり、手紙が届いたりする。暗号文の解読を進めるうちに、その暗号文にはモデルとした人物の妹が彼に宛てた手紙が含まれている、他にもさまざまな作品からの引用まで含まれているので、とにかく色んな人物の色んな発言・言葉が作品内に駆け巡っている。その全てがあらかじめ決められていたゴールに向かうというよりも、その周辺をぐるぐるぐるぐると周りに周って、と思いきや別の場所に寄り道をする、多声的な作品空間を読み手は何が何だかよくわからないまま必死で読むことを強いられるが、この過程を追うことそのものに楽しさがある。

 小島信夫を読み始めたのは四年くらい前で(たしか文庫の「アメリカン・スクール」)、その後たまたま古本屋で見つけた「残光」がとにかくおもしろく、ここ半年で「各務原・名古屋・国立」の文庫化があったり、運よく本屋・古本屋で他の作品を見つけたりしたことから彼の作品にどっぷりと浸かっているわけだけれど、小説のもつ懐の深さと不思議さを教えてもらっている。

 そして、とにかく自分の中にある「書きたい」という気持ちが先行するあまり、逆に何にも手をつけることができていない、こうなったら生活習慣を根本的に改善するしかないのではなかろうか。夜は疲れてしまって本を読んだり何かを見聞きしたりすることが限界だから、朝しかないのかもしれない、そういえば学生時代に朝型の生活習慣に切り替えるために早朝勤務のバイトを始めたことがあったが、半年しか意思は続かず、半年経ってからはやや寝坊したり、勤務後に仮眠してしまい早く起きようと遅く起きようと活動開始時間が変わらなくなったりして、無意味だった。今回ははたして。

 

ほぐそう、すすもう(0226-0409の雑記)

 平素の仕事がようやっと落ち着いた、やったぜ。時間もできたことだし自分がやりたいことにとことん打ち込もう!……と思っていたのだけれどすっかり気が抜けてしまい、まいにち酒を飲んでばかりいる。この雑記の更新も、切羽詰まった日々の中で唯一気持ちを整理する場というか、わたしの内奥にひそむエネルギーを吐き出す場というか、ともかく労働で疲弊した心身をほぐすため、今年に入ってからは週に一回必ず更新しようと決めていたにもかかわらず酒を飲んでばかりいる。家に帰るころには身も心もほぐれるどころかスーツをソファへ乱雑に脱ぎ捨てぼんやりと歯磨きをしながらシャワーをし最終的にはだらしなく口を開けて寝てばかりの有様なので、こんな状態ではものなど書けるはずがない。

 それにしても酒を飲むことが楽しくてしようがない。ひと昔前はひどい飲み方ばかりしていた、酔いがまわると基本的には碌なことをしておらず人様にもご迷惑をかけてばかりだった、そのことをたまに思い出しては消えたくなる、ようやっと自分がどの程度までなら周囲に悪影響を及ぼさず楽しい状態のままでいれるか、つまりアルコールの許容限度を知ることができたので、終始ほんわかした気分で酒の場を過ごすことができている。

 ここ一年くらいでよく行くようになったお店は美味しくて珍しいお酒をたくさん揃えていて、店主さんのおすすめに導かれながらこれまでに飲んだことのないお酒を飲むことが楽しくてしようがない。おしゃべりしながら一杯のお酒をゆっくりと楽しむことのできる空間というのも居心地がいい理由のひとつ。店主の趣味趣向に満ち満ちた内装も素敵だ。ここ半年くらいは労働のせいで気分が落ち込むことも多かったのだけれど、家以外に気分を和らげてくれる場所があることそのものにたいへん助けられているのだ。

 もういっこ心身がほぐれる場所といえばライブハウスである。仕事が忙しくてここ数ヶ月はほとんどライブに行けてなかったのだが、業務が落ち着いてきたおかげでやっと行きたいライブに行けるようになった。

 三月十一日にはyumboとテニスコーツのライブを見た。yumboは友人に勧められたことをきっかけにゆっくりと夢中になった仙台のバンド。2021年にリリースされたベストアルバム『間違いの実』を何度も聞いていたので、実際にライブを見る日を心待ちにしていた。おだやかであり、豊かであり、時にスリリングなバンドアンサンブルを聞きながら、小さな部屋でわたしだけに向けて演奏されているような感覚に包まれた。オーディエンスひとりひとりと対話するように、ひとつひとつの音を生み出す過程を目の当たりにしたからなのかもしれない。「鬼火」「さみしい」「失敗を抱きしめよう」「間違いの実」「悪魔の歌」などなど、セットリストの後半には代表曲でありわたしが大好きな曲を演奏してくれたので、ライブハウスの後ろの方でこっそり感極まる。

 テニスコーツのライブパフォーマンスには衝撃を受けた。打ち込みのトラックに合わせながら自由に歌うボーカルのさやさん、ゆらゆら揺れていたかと思いきや、ラップ、サックス、ギターをどこまでが事前に予定していたのかわからないタイミングで披露する植野さん、二人の身体表現により歌のもつ力が独自のダイナミズムを生み出していたライブだった。特に感激したのは「光光ランド」のパフォーマンスで、そのときに自分に生まれた感動を言葉にすることができなくて悔しいのだが、生きる指針といおうか、希望といおうか、生の肯定といおうか、とにかく二人の周囲に白い光が輝きこちらを照らし出しているようだった、間違いなく一生忘れることのできない演奏だった。

 四月六日にはBlack Country, New Roadのライブを見た。ボーカルのアイザック脱退をうけ、全曲新曲となったフジロックのパフォーマンスを配信で見て以来、かれらの音楽に夢中になっている。過去のディスコグラフィーを改めて聴き直すもやはり今の編成と音楽性のほうが好みだったりする。すでにアンセムとなっている「Up song」からはじまったライブは、メンバーそれぞれの個性と卓越した演奏技術を存分に堪能できるもので素晴らしかった。大好きな「Dancers」も聞けたし新曲3つとも常時胸がワクワクする楽曲で、新曲で構成されるスタジオアルバムが待ち遠しい。

 yumboもテニスコーツもBlack Country, New Roadも、彼らの音楽はジャンルにくくることが難しく、グループ名=ジャンルであるように感じている。今から作品を書こうとしているわたしの理想とするすがたそのものなのだ。