魂のダンス

書く無用人

自転車バイク(2021年4月〜6月の雑記)

 

 どうも家にいる時間が長くなると余計なことまで考えてしまい、気持ちがくさってしまうので、思い切って自転車を購入することにしよう。せっかくなのでママチャリではなく、いわゆるロードバイクといわれる形のものがいい。
 というのも、高校時代は深緑色のママチャリを愛用していたのだが、一般的に販売されているママチャリに乗ると自分の身体のサイズに合っておらず、友人からはサイズ感がおかしいだの、公園の遊具に乗っているだのと言われる始末だった。これに関しては自覚があり、窓ガラスが大きいお店の前を横切ると、ママチャリがやけに小さく見える。本来はママチャリのほうが大きく、その上に人間が乗っているように見えるはずが、自分がママチャリを押し倒しているように見える。これはよくない。

 というわけで、自分の身体にぴったりなロードバイクを購入しよう。意気込んで近隣の自転車ショップを見て回るものの、悲しい哉、どれもこれも相応に値が張る。自分としてはおやすみの日の気分転換にちょうどよいものを探しているのに、店頭に並んでいるものは、ガチガチの競技用のものか、やや予算オーバーで自分のお財布を絶妙に圧迫するものばかりだ。

 しょうがないのでネットで買おうかとも思ったが、いざ購入して組み立ててみると、自分の巨体にそぐわない、ちんちくりんな風体のものだったらどうしよう、と不安になる。そんなことで余計なストレスを感じないためにも、12年間続けたバスケットボールで鍛え上げた不屈の精神を奮い立たせ、諦めることなく近隣の自転車ショップを巡回するうちに約1ヶ月が経った。

 もう理想のロードバイクなど見つからないのかもしれない。ちょっと値が張るものを買い、しばらくは本やレコードを買うことを我慢しよう。半ば諦めていたところ、幸いなことに家計を圧迫しない程度のお値段で、近隣を走るくらいなら十分ですよ、と店員さんが説明するロードバイクがあらわれた。これはもう買うしかないと思い、即購入。以来、晴れた休日は新しいチャリンコを乗り回している。

 歩くこととは違って、自転車を走らせると、風がぐんぐんと毛穴に入ってくる気がする。日光を吸収していくうちになんだか気持ちがよくなって、口から歌がこぼれる。自転車バイク、自転車バイク。今年に入って改めて夢中になっている空気公団の初期の名曲「自転車バイク」だ。

 

他人の言葉を改めて伝えることがお仕事

時には入れ間違いもするらしい

それでも今かと心待ちにしている

 

昨日の手紙に恥ずかしい言葉を

見えない場所から君の住む場所へ

 

自転車バイク 自転車バイク

今日も走ってくれ

 

空気公団「自転車バイク」2000年 

 

 自分は郵便屋さんでも何でもないのだが、どこかに何かを運んでいるような気分になってくる。鞄には財布、本、綾鷹(600ml)しか入っていないので、何も運ぶものはないし運べない。

 行動範囲が広がったことで、自転車30分圏内にたくさんの大きな公園があることに気がついた。大きな公園はくつろぐスペースが用意されているので、ボーッとするのに適している。公園内を徐行で走行しながら、どこに腰掛けようかとぷらぷらしている時間がわりと楽しい。

 空いているベンチを発見して、その横に新しい自転車を停める。子らが遊具ではしゃぎまわるのを親たちが見守っている、時々一緒に遊んで、気をつけなさいと注意をしている。キャンプ用の椅子に座った男性がアコースティック・ギターをぽろぽろ爪弾いている。横にいる妻らしき女性は、夫のアコースティック・ギターの演奏には興味がないらしく、目の前を見つめながらじゃがりこをポリポリ食べている。その近くでは若い男女がシートの上で寝そべっている。散歩中の犬がたくさん通る。この公園は周囲に迷惑をかけない程度であれば、何もしても自由な雰囲気だ。

 ベンチに座って持ってきた本を読み始める。今日は、小山清の随筆集『風の便り』を持ってきた。よく行く古本屋さんに入荷していたものを見つけ、冒頭の「夕張の友に」を読んで、これは買うしかないと思った書籍だ。

 

 君が所帯を持ったことも、子供が生まれたことも、風の便りに聞きました。この世の中には、風の便りというものがあって、こちらがべつに求めることをしないでも、消息を聞かせてくれるものですね。なにげなく齎されたものがいちばんいい。どこかの古い諺に、こんなのがなかったかしら。日頃会い過ぎるほど人に会い、席の暖まらぬ思いばかりしていると、そんなたまの便りが懐かしくて。

 

小山清「夕張の友に」『風の便り』夏葉社、2021年(初出は1952年)。

 

 実際文字には体温などないが、小山清の言葉を追うと、そこにはそばにあると心地がよい温度が広がっているように感じる。

 小山清は、太宰治に師事した経験のある作家である。先日来、読み続けていた井伏鱒二の孫弟子とも言えるのかもしれない。肉体労働を行いながら、創作に励んでいたようで、「夕張の友に」は題名の通り、炭鉱作業員として働いていたころに出会った友人へ宛てた私信のような作品である。

「ただ君にあてて書くということで、自問自答しているだけなのです。そして、それが僕にはなによりの心遣りになるのです。」とは述べているものの、「平凡」な「君」のことを思う気持ちが、素直に、伸びやかな筆致で綴られている。読み手の自分に宛てられたものではないが、友人に対する等身大の言葉は普遍性を帯び、こちらまで温かな気持ちになる。

 本随筆集では、日常の感慨や娘へよせた作品が収録されており、どれも優しさにあふれた視線が印象的だ。中でも好んでいるのは、詩と呼んでも差し支えない「風の便り」という作品である。

 

 僕が生きているきょう、君も生きている。生きているということは、たったそれだけの思いだけのものかも知れない。

 

小山清「風の便り」『風の便り』夏葉社、2021年(初出不明)。

 

 物を運ぶことはできないけれど、言葉で何かを運ぶことはできないだろうか。いや、できる。そんな当たり前だけれども、ないがしろにしてしまいがちな言葉の切実さを、本随筆集を読みながら考えたのだ。

 そして、自分にもできないだろうか。できるようになりたい。幸いなことに仕事もやや落ち着いているので、創作を行ってみようと思った。「希望を見失わずにやって行」けるような作品を書ければ、どんなに幸せなことだろう。前々から創作を行いたいと思っていたものの、ぐずぐず自分のなかで理由をつけて先延ばしにしていたが、本腰を入れて行いたいと思えるようになった。そういう理由で雑記の更新が滞っていたのでした。

 とある文芸誌が短い枚数で作品を募っていたので、まずはそれに挑戦してみようと書き始めたものの、50枚くらいを過ぎたあたりから、〆切ぎりぎりにも関わらず収拾がつかなくなってしまったので、別の文芸誌へ応募することにした。またしても先延ばしである。先延ばしを決めた6月末からは気力を失ってしまい、しばらく書けないでいた。というわけで、私事を綴ってリハビリすることに決め、こうして書いている。こうして書いたからには、創作を再開しよう。毎日書こう。書いて書いて悩んで書こう。

 

 

風の便り

風の便り

Amazon

 

 

 

 以下、備忘録。Twitterでちまちま感想を書くくらいの体力しか残っていない。

 池間由布子のLPを繰り返し聞いている。

 

 

 カネコアヤノの新作と小山清が個人の内部で共振している。

 

 

 冬にわかれての新作ははやくでかい音で聞きたい。

 

 

 先程も言及した空気公団の新作もよく聞いた。

 

 

 HomecomingsとGRAPEVINEの新作、どちらも最高傑作ではないでしょうか。

 

 

 宗藤竜太は、最近見つけた素晴らしいシンガーソングライター。

 

 

 ニューエイジミュージックを探求中。

 

 

 ブラジル音楽も探求中。

 

 

 CANのリマスター化を機に、どっぷりハマっている。

 

 

 そして最近はFaye Websterばかり聞いている。

 

 

 本や漫画は以下の通り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ようやく演劇を観に行くことができて、うれしい。

 

 

 

 ドラマや映画は以下の通り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 折坂悠太と青葉市子のライブを見た。青葉市子のライブで人生初の1階1列目でした。

 

 

 

「好きな人のことを褒めることで生涯を送りたい」のだが、Twitterを振り返ると、褒める語彙が貧弱すぎる。