魂のダンス

書く無用人

羅針盤(2020/5/2(土)〜5/6(水)の雑記)

 今年のゴールデンウィークは、NOT  WONKのライブを観て、せっかくなので国内ひとり旅(東北編)をしたり、遠方の友人に会いに行ったりしようかと思っていたのだが、どれもこれも中止になってしまった。スーパーに買い出しに行く以外は家に引きこもるという在宅勤務の延長生活で、メリハリが感じられない。一日の大半はNetflixYouTubeを観るか、レコードを掃除しつつ再生するかしていただけだった。積読の山を崩していこうかとも思ったが、こちらはあまり進まなかった。

 とはいえ、この機会に友人といわゆるZoom飲み会をしたことが数少ない楽しみのひとつだった。近況報告ももちろんだが、ある友人たちといまの気分で10曲選んで共有し、その場でいくつか聴いてみるという試みが特にたのしかった。友人のおすすめは自分も良いと感じる曲もあれば、もちろんピンとこないものもあるからおもしろい。何よりも自分は知らなかったけれどもこれは良いと感じるものを発見できうれしい限りだ。
 Lianne  La  HavesやKyle  DionといったR&Bシンガー、90年代前後にThe  Smithsチルドレンとして活躍したThe  Sundays、そして真心ブラザーズの良さを改めて知る。
 そういえば真心ブラザーズのアルバムは、週刊少年ジャンプの巻末コーナー「シティポップ」アルバムの1枚として、スカート澤部さんが選出していた。こちらではSaToAも選出されていたので、澤部さんの視点に唸ったりもした。

 あまりのテンポの良さにツッコミが追いつかないものの、何だか先の展開が気になってしまい、ついに『梨泰院クラス』を全話観てしまった。細かい点はネタバレになってしまうので多くは触れないが、この作品は悪者が徹底して悪者に描かれているため、相当観やすいのだなと感じた。ちなみに悪者がなぜ悪者になったのかはそこまで詳しく言及されないため、やや疑問が残るところ。
 とはいえ、この作品は出来事の展開と主人公サイドの登場人物たちが愛すべき存在として描かれていることから、支持を集めているのだろうか。自らを追いやった相手への復讐と自身の夢を叶えるため信念にまっすぐな主人公のパク・セロイ、IQが高い天才かつソシオパスでありセロイに恋心を抱くチョ・イソ、ヤクザを辞めてセロイについていくチェ・スングォン、トランスジェンダーの料理人であるマ・ヒョニなど、魅力あふれる人物ばかりだ。とても好きな作品かと言われるとそうではないが、人には薦めやすい作品だと思う。
 この流れで『愛の不時着』も観始めたのだが、1話から財閥令嬢兼やり手の社長である主人公が、自社製品のパラグライダーのテスト飛行をしたところ、竜巻に巻き込まれてしまい、北朝鮮へ不時着するというトンデモ展開で笑ってしまう。
 ここでラブロマンスの予感もあるので、さらにツッコミを入れたくなるが、展開のテンポが良すぎるため、こちらも先が気になってしまう。

 ナインティナイン岡村隆史さんの発言に対する爆笑問題・太田さんの見解がとてもすばらしかった。岡村さんの発言の問題点を捉えながら、かれを批判する人々の視点だけでなく、岡村さん側の視点も包括しながらの語りは、まさに本音で人に寄り添う45分間だった。

 だらだらと家にいるだけだとあまり体力を使わないからか、夜なかなか寝つけなくなっている。そんなときには、自宅でできるだけ身体を動かそうじゃないか。
 自分が活用しているのは、なかやまきんに君YouTubeチャンネルにアップロードされているトレーニング動画だ。これがたいへんキツくて効くのだが、自分が何よりも好きなのは、きんに君もトレーニングの合間合間で視聴者へキッツいなぁという表情を見せてくれることだ。
 それを見ると思わず笑ってしまうのだが、きんに君ですらキツくても頑張っているのだから自分も頑張ろうというきもちになれる。
 そして、〆はお気に入りの音楽を聴きながら近所をランニングする。最近はランニングをする人が増えている気がする。

 多和田葉子『言葉と歩く日記』を読み進める。多和田さんが自著『雪の練習生』を自らドイツ語に翻訳していく日々のなかで、出会った人々や体験を踏まえながら、言葉への思考を綴っていく。多和田さんの体験と思考をなぞることのできる貴重な読書体験だ。
 多和田さんがフランスのティオンヴィルという町の高校のドイツ語クラスに呼ばれたときの一節が印象深い。そのクラスの先生は過去に授業でフランスとドイツの原発に関する記事を読んだという。その内容がかなり違うことを踏まえて、多和田さんはこう考える。

 母語で得られる情報だけに頼るのは危険だ。外国語を学ぶ理由の一つはそこにあると思う。もし第二次世界大戦中に多くの日本人がアメリカの新聞と日本の新聞を読み比べていたら、戦争はもっと早く終わっていたのではないか。それはアメリカの新聞に書かれていることが正しいという意味ではない。書かれていることがあまりに違うというだけで、自分の頭で考えるしかない、何でも疑ってかかれ、という意識が生まれてくる。そのことが大切なのだと思う。
多和田葉子『言葉と歩く日記』岩波新書、2013年、p.214)

 ことばとことばのあいだで創作を続ける多和田さんが述べると説得力が増す。
 そして、これはことばとことばのあいだだけでなく、日々の生活のなかでも活きるのではないだろうか。言われたことを鵜呑みにせずに考えることは、いま最も必要とされるのではないだろうか。
 そして後書きには日記という形式について、印象深い一節がある。

毎日湧き上がってくる数々の疑問、数々の優れた書物との対話、旅で出逢った人々の言葉、街角で目にした光景、言葉にまつわる出来事や出来事としての言葉、友人、家族、作家仲間、過去の作家たちの亡霊。いろいろな声を入れることのできる日記という形式に感謝したい。
(同前、p.232)

 自分がこうして書き連ねていくことばも、未熟ながらもポリフォニックなものにしていきたい、などと感じた。