魂のダンス

書く無用人

日々、春の瞬間

 

  論文を提出して、さあやっと一息つくことができると思ったのも束の間、口頭試問や発表会の準備で追われに追われ、それらも無事に終了したかと思うと、怒涛の送別会ラッシュや新居へ引っ越すための準備を完遂したところ、いつの間にか3月も終了しそうである。

  無事に卒業することができ、随分と長い期間を学びに費やすことができたことの有り難みを感じつつあるが、自分の周りでもそうした卒業というものの話題が多い。

 

 


  2月には乃木坂46西野七瀬さんの卒業コンサートを観た。チケットを当ててくれた友人には感謝である。久しぶりに乃木坂46のライブを観たのだが、曲をショートバージョンで次々と披露していくスピード感があったことを思い出し、沢山の曲が聴けることを嬉しく思う反面、個人的に好きな曲はフルコーラスで聴きたいものだなとも感じた。

  しかし何よりも印象深かったのは、卒業する本人の西野さんが終始笑顔でパフォーマンスをしていたこと。別れの場面を悲しみにするのではなく、次のステージへと繋げていこうとするその姿勢に心打たれることになった。対照的に西野さんと同い年世代、1994年組の中田花奈さんがMC中に感極まってしまう場面にはこちらも現前が霞む。様々な事情により、Wアンコールの「光合成希望」をすべて聴くことは叶わなかったものの、このライブを観ることができ、芸能の場で活躍しながら様々な思いを抱きながら前に進んでいく同世代の姿を観ることができ、良かったなと思う。

 


  卒業というと、最近観ることができてなかった「青春高校3年C組」、ようやくリアルタイムに追いついているのだが、卒業ドッキリ?が行われ、こちらは生徒全員晴れて「留年」、来年度以降もほぼ変わらないメンバー、かつ3期生が加入するということで、真摯に生徒たちの活躍を応援する一視聴者である自分は嬉しい。学業の都合で抜けてしまう山口さんは残念だが、今後の活躍を祈っている。

  千鳥のネタ「寿司屋」で大悟が行うボケを生徒が代わる代わるに行った「イカ2貫選手権」でのわったーの活躍や、突発性難聴になってしまったノブナガの岩永へエールをおくる回など、私的ハイライトは多いが、特にバカリズムの前で果敢に大喜利を行う元ひきこもりの村西さんの溌剌とした姿が良かった。低いトーンの声で緊張感をもって淡々と、かつ楽しそうに大喜利を行う村西さん、そして一個一個に駄目出しを行おうとするバカリズムの両者の掛け合いが何とも面白い。関東圏に越してきたので、「青春高校」をTVの画面で視聴することができることも、今春からの楽しみのひとつである。

 


  そんなこんなで卒業に関する身の回りで見聞きしたものをつらつらと挙げていったのだが、そもそもこのブログやツイッターが音楽を中心とした感想を書いていこうとして始まったことをすっかり忘れていた。あちこちを行ったり来たりしている間に、耳から己の身体にグッと入り込んできた一枚は、柴田聡子『がんばれ!メロディー』である。

  柴田さんの歌声に、イトケン(Dr.)、かわいしのぶ(B.)、岡田拓郎(G.)、ラミ子(Cho.)といったメンバーの奏でるサウンドが、共同しながらひとつの織物を編んでいき、そしてそれは柔らかく暖かなものに仕上がっているのだ。本人も「今回、楽器もみんな歌ってくれているような感じがしました。」(https://www.cinra.net/interview/201903-shibatasatoko)と述べているように、各楽器のサウンドも心地良さと異質感が絶妙に合わさって、歌声のような生命を感じる。詞に関しても日常の断片にきらめく瞬間が積み重なって、聴き手の情感を呼び起こす。「結婚しました」の中盤以降の混沌とした進行や、「涙」のサビ直前の音の広がりには、強く引き込まれる。「ラッキーカラー」の切なさや、「佐野岬」のユーモア、「ワンコロメーター」や「セパタクローの奥義」に垣間見る狂気も良く、全曲フェイバリットである。アルバムタイトルの『がんばれ!メロディー』は、奏でられるメロディーそのものを鼓舞するだけでなく、「メロディー」そのものが音楽を通じたエールを聴き手におくっているのではないかと考えている。イ・ランとの共作『ランナウェイ』も素晴らしい作品である。イ・ランの音楽や著作にも興味がでてきた、最近。

 


  その他にはSolangeの19曲38分のなか、圧倒的な完成度でリスナーを屈伏させる『When I Get Home』や、サウスロンドン発、King Kruleをプロデュースに迎え、夜のまちにぴったりのダークな格好良さが印象的なPinty『City Limits』が、国外では再生回数が多かった。国内だと、2019年にドロップされたネオエレクトロポップガール、加納エミリ「ごめんね」の曲、MVのカオス感が堪らない、またDos Monos『Dos City』の暗闇から煮え滾るビートと沸き上がるリリックに感嘆、そしてキャリアハイの作品を完成させたTHE NOVEMBERS『ANGELS』などがお気に入りである。フィロソフィーのダンスsora tob sakanaの女性グループ勢や、君島大空といったとんでもない才能を持ち合わせたシンガーソングライターのアルバムも良かった。

 


  そしてようやく積読を読み進めることができていることも嬉しい限りで、勝利が遠いプロボクサーの葛藤と、彼を支援するトレーナーの交流が描かれ、晴れて芥川賞を受賞した町屋良平の新作『1R1分34秒』、そして『文藝』に掲載された「水面」を改題した、恋に躓く「ぼく」の物語『ぼくはきっとやさしい』、どちらも面白く読んだ。町屋さんの思考と身体性の結びつきを探っていこうとする言葉の運動や、弱さに関する追求が好きで好きでたまらない。

  また、彼が最も影響を受けた作家だというヴァージニア・ウルフを、そういえばきちんと読んでいなかったなと思い、岩波文庫版の『灯台へ』を読んだが、言葉を追うごとに圧倒される読書体験であった。哲学者ラムジー氏とその夫人と子供たち、彼らに関わる登場人物の思考に入り込みながら、灯台へ向かおうとする前の1日が、細やかに、美しく描かれる。生まれては消える思考や記憶を言葉にしていこうとし、登場人物の生の刹那が、続く第二章と第三章で切に迫ってくる。もっと早く読んでおくべきだった傑作。

  また今村夏子の最新短編集『父と私の桜尾通り商店街』は、これまでの今村作品のユーモアと不気味さがさらに洗練されている。かつてはチアリーダーのエース的存在だったにも関わらず太ってしまった女性の秘密に迫る「ひょうたんの精」がお気に入り。

  他にもこの数ヶ月で読んだ小説作品はどれも面白く、井伏鱒二西村賢太の各作品、滝口悠生『愛と人生』や上田岳弘『ニムロッド』もおススメである。短歌では、笹井宏之『えーえんとくちから』における優しさとユーモアに包まれた言葉の舞踊には感嘆させられるものがあった。

 


  こうして見聞きしたものを思い返して言葉にしていくことは、相当のエネルギーを使うのであるが、それでも語っていかなければならないと考えているのはクリスチャン・ボルタンスキー「Lifetime」展をみたことで、記憶をいかに形にしていくかについて大きく考えさせられたからでもあるが、何よりもこの長かった学生生活で出会えた様々な人々によって、自分が形成されているのだということをいま強く感じている瞬間を忘れたくないからに他ならない。現在も交流が続く友人や、長らく会うことができていない人、迷惑をかけてしまってほぼ連絡をとっていない人など様々いるのだが、それぞれの人からしか生まれ得ない言葉を受けとって、交流をもったことで、いまの自分がある。出会えた人、これから出会う人すべてに、空転してしまうかもしれない愛情を不器用ではあるが捧げていけたら良いな、と新生活が始まる直前に強く感じているのであった。

 


  さて、本題の新生活は周囲の環境も良く、これから待つ未だ見ぬ面白いものに期待が膨らむ。強く感じていることは、都会の徒歩10分と田舎の徒歩10分の違いである。現在は賑やかな商店街や住宅地を歩くときは、すれ違う人々や新しい景色によってあっという間に歩く時間はすぎていくのであるが、以前まで住んでいた土地だと徒歩は己の虚無と代わり映えのしない景色によって徒労感が半端ではなかった。田圃田圃の間を舗装したコンクリートの道、たまに通る自動車、飛び回る鴉にぶらつく野良犬、そしてただ歩く自分と、日を変えても変えても変化がない道。しかし、最近郡司ぺギオ幸夫『天然知能』を読んで、自らの心象が十分ではなかったのかもしれないとも考えている。氏は「知覚できないが存在する外部、徹底した外部」について考え、その外部を生きる次元について考察しており、ですます調で書かれてはいるもののなかなかに難しく、一周しただけではまだまだ己の理解が追いついてはいないが、この本を読んで田舎道を歩く自分は徹底した外部に目を向け絶えず運動していく「天然知能」が開かれていなかったのかもしれないと強く実感することになった。場所が変わったことをキッカケに、己の知覚できない外部への感覚を鋭敏に開いていきたいものだ。

 


  しかーし、新生活は金がかかってかかって仕様がないものだ。日用品や家具を買うのにも結構お金がかかり、そういえば通勤に使う革靴のリペアやスペア購入もしなければいけない。そんなことを踏まえながら算段していると、今月は机や椅子、ソファーベッドを買う余裕もなければ、映画を観たりライブに赴くことや、折角見つけた古書店レコード店で買い物をすることもできなさそうである。各種インフラは整ったものの、諸トラブルによりネット環境がしばらく使えず、現在はWi–Fi探索員として近隣を巡回している。とはいえ根が気にしいでできている自分は、Wi–Fi環境下の喫茶店や飲食店で長居することができず、いまは引越しの際に錬成された特製段ボールデスクでこれを書いている。この世に生まれ出た瞬間の自分は、まさか20代も半ばになって、段ボールの上でものを書いているとは、果たして予想していたのだろうか。(了)