魂のダンス

書く無用人

コーンのマーさん

 はじめまして。このたび、丸太賀フーズに入社することになりました、大津行彦と申します。えーっ、とても緊張しております。大勢の人の前で話す経験というのがほとんどございませんでして。しどろもどろになってしまうかと思いますが、ご容赦ください。

 さて、わたくしが丸太賀フーズに入社するきっかけとなったのは、社の看板商品「コロコロキャラメルコーン」を食べたからです。正確には、「コロコロキャラメルコーン」が常に家にあったからです。

 幼いころ、実家には自分の友達だけでなく、両親の知り合い、祖父母の知り合いが頻繁に我が家を出入りしていました。みんな何をするでもなく、ただ居間に座ってテレビを見ながらだらだらと喋って、ある程度満足したら好きなタイミングで帰っていきました。両親も祖父母も、誰かが家に来るからといって特段な準備をすることなく、「おう、来たか」といって地域猫を家に招き入れるようなテンションで、茶やコーヒーや菓子を振る舞い、来客と雑談していました。両親も祖父母も明るかった、というわけではなく、むしろ物静かなタイプで、家族が揃う朝食や夕食のときなどは黙々とごはんを食べ、食べ終わったあとはたいてい祖母がその日に誰と会ったかですとか、ニュースでこんなことを言っていたですとか(だいたいは景気が悪いことにぶつくさ文句を言っていました)、明日はこんな予定だなどと話し、それに応じる形で他の家族が会話に参加するのがお決まりの流れでした。とはいえ、たいして盛り上がりもせず、わたくしなんかは風呂から出るとすぐに早く寝ろと言われて寝室に連れていかれていましたし、自分の部屋を用意されてからはだいたいすぐに部屋に閉じこもってマンガを読んだりゲームをしたりしていました。このときに『鋼の錬金術師』のアニメが放映されていてハマりにハマり、もちろんマンガも既刊はすべて揃え、その後も新刊が出るたびに欠かさず買って、何度も読み返していました。実はここでハガレンにハマったことが、中学校で唯一理科の授業だけを好きになったきっかけであり、大学で生物学を専攻することになったきっかけでもあります。そして大学での専攻を活かせる職業はないかと考え、こうして丸太賀フーズの開発部門に就職することができた、というわけでございます。荒川弘先生さまさまです。

 来客の多かった我が家のなかでも、特に頻繁に来ていたのが、近所にすむマーさんというおじいさんでした。本名はわかりません。みんなマーさん、マーさんと呼んでいたので、わたくしもマーさんとしか呼んでいませんでした。マーさんはだいたい夕方ころにわたくしの家にやってきました。マーさんがうちに来て祖父母としゃべっていた内容はまったく思い出せませんし、しゃべる以外に何をしていたかも記憶にないのですが、マーさんはうちに来るたびに、丸太賀フーズの「コロコロキャラメルコーン」を持って来てくれたのでした。ただ、当時のわたくしは子供にしては珍しくお菓子にまったく興味をもてず、何よりも白米と唐揚げが一番の好物でした。いまでこそ標準体型ですが、小さいころはそれは体格がよくて、ちびっこ相撲で優勝したこともあります。マーさんからもらった「コロコロキャラメルコーン」を開けて、いくつか食べてはいたのですが、やっぱり白米と唐揚げが食べたい、と思ってしまい、すぐに棚にしまってしまうのでした。マーさんはそんなわたくしの様子にまったく気づかず、毎回毎回「コロコロキャラメルコーン」を持ってきてくれました。ですので、我が家のお菓子棚には常に「コロコロキャラメルコーン」がパンッパンに入っており、当時のわたくしは白米と唐揚げにしか食の興味がないものですからあまり食べず、他の来客者のお茶菓子に使われていたか、他の家族が食べていたのだろうと思います。わたくしもマーさんに毎回持ってこなくていいと伝えればよかったのですが、マーさんもマーさんでがっしりとした体格でしかも声が低く、あまり表情を変えないものですから、怖気づいて言い出せなかったのだろうと思います。

 マーさんはいつごろからかさっぱりうちに現れなくなり、その後病気をしたかなにかで入院し、そのままお亡くなりになったと聞きました。肉親ではございませんでしたし、なにぶん幼かったものですから、葬儀には出席しなかったと思います。それからは我が家のお菓子棚に「コロコロキャラメルコーン」が補充されることはなく、すかすかの状態が続くことになったと記憶しています。

 わたくしが「コロコロキャラメルコーン」に再び出合うことになったのは、大学の研究室で徹夜で次の日のゼミの発表資料を作成しているときでした。徹夜で資料を作っているといっても、その日はまったく集中できておらず、深夜1時くらいに何を思ったのか、インターネットで「探偵ナイトスクープ」の傑作選を見始めてしまいました。ちょっと昔の放送内容だったので、局長は西田敏行でした。VTR前後にしゃべる西田敏行を見ていると、ふと、マーさんによく似ていることに気づきました。マーさんのことは普段の生活でまったく思い出すことはなかったのですが(マーさんごめんなさい)、なぜかこのとき急に思い出した。そして記憶の中のマーさんとつよく結びついていたのが、「コロコロキャラメルコーン」だったのでした。ちょうど小腹も空いていたので、大学近くのコンビニに向かい、「コロコロキャラメルコーン」を買いました。研究室に戻る道で封を開け、人がいなくて暗いキャンパスを歩きながら食べる「コロコロキャラメルコーン」は、どういうわけかとても美味しかったのです。このとき食べた「コロコロキャラメルコーン」の美味しさが忘れられず、就職活動の時期に丸太賀フーズを志望することになり、本日幸いなことに入社することができた、という次第でございます。

 実はこのことを喜んでくれたのは、両親ではなく祖母でした。祖母は最近スマホを手に入れて、慣れないながらもたまにメッセージを送ってきてくれます。たいした祖母です。わたくしも丸太賀フーズの内定が決まった際、祖母にも連絡いたしました。すると、こんな返事が返ってきたのです。そのまま読みます。

 

 行彦就職できてよかったね。行彦の好物でよく買っていたキャラメルのお菓子の会社だね。残りの学生生活体に気をつけてがんばて。

 

 フリック入力に不慣れながらも、メッセージを返してくれる祖母をすごいと思いつつ、すこし気になることがありました。「コロコロキャラメルコーン」を買っていたのは、マーさんではなく、祖母だったのか。正直わたくしの記憶ではマーさんが毎回持って来てくれたものでしたし、そもそも好物ではなかった。メッセージのやりとりだと祖母が大変だと思い、正月に実家に帰ったときに家族に直接聞いてみました。「マーさん……ああ、いたいた。高倉健に似たハンサムなじいさんだった」「うち来るとき、『コロコロキャラメルコーン』を持って来てはいたけど、毎回ではなかったよ」「わりとおばあちゃんのほうが買ってたよ、あんたも好きだったし」「キャラメルコーンをつぶして薄い板状にして食べようとしていたから、ばっちくてよくあんたを怒ったよ」

 わたくしは採用面接のとき、マーさんとのエピソードを話の枕で喋っていましたが、何もかもが間違っていたのか、それともわたくしだけが覚えている事実なのか、家族の記憶ちがいなのか、真相はさっぱりわかりません。とにかく、事実かどうかわからないことをぺらぺらと喋ってしまったこと、特にこの話に深く頷きながら聞いてくださった松本常務には、深くお詫び申し上げます。

 未熟者ではございますが、今後の業務の際には、記憶違いが起こらないよう、しっかりと報連相をする、を目標に、地道に頑張っていきたい所存です。どうぞよろしくお願いいたします。(了)

 

※「古賀コン」(https://note.com/koga_hiroto_13/n/n30ec13f45712?sub_rt=share_pb)参加作品。参加条件:1時間で書き上げた文章。制作期間:2024年3月3日(日)10:31〜11:29。

20240229

 書くことは考えることである。考えることが書くことによって結実するというのではなく、書くことが考えることであるというこの順序を大切にしたい。

(石岡丈昇『タイミングの社会学 ディテールを書くエスノグラフィー』青土社、2023年、p.9)

 

 わたしのことを書くつもりがなくなった。Xにも特段書くことがなくなって、見たライブや映画なんかの備忘録になっている。Instagramも同様。なんちゅーか、実生活のわたしとは切り離して、いや、薄いつながりは残しつつも、書くことでオルタナティブな生を立ち上げたい。

 昨年買ったまま積読になっていた石岡丈昇の本の「はしがき」に引用した文章が書かれていて、この文章と目次に惹かれて購入したことを思い出した。

 ここも使い方を変えようと思った。

 それは断片的な何かになるかもしれないし、今読んでいる書籍の引用にもなるかもしれない。見聞きした瞬間をなんとか書こうと悪戦苦闘しているものになるかもしれない。まあなんだっていいからとにかく書こう。書いていくうちに何かが見つかるのだから。

 

 愛でていたパキラの調子が悪くなって落ち込んでいたが、はじめて植え替えをして肥料を与えると新しい芽が出てきた。

20240108

 くもり。

 最近継続できていることといえば筋トレくらいで、他に何か続けているかと言われても何もないとしか言えない。朝起きて仕事に行って割と遅くまで働いてX(旧:Twitter)をだらだらと見て、『墓場鬼太郎』のアニメを見るくらいだ。毎日スポーツに打ち込んでいたときにはあれだけ大嫌いだった筋トレを継続できている。なぜだろう。寝る前に考えてみたのだが、単に金銭的にくるしくカッツカツだったので、食事・睡眠に十分な投資ができなかったからにちがいない。学生時代なんて金があるわけがなくて、粗末な食事、例えばセブンイレブンの揚げ鶏ひとつで米をどんぶりで3杯食べるだとか、揚げ物だらけのバイトのまかないをたらふく食べるだとか、そんなことをしているにもかかわらずなぜか金がなくて、学食でうどんしか頼めなかった。バイトも夜勤のほうが稼げたので、夜中にばかり働いていた。そんな生活で筋肉がつくはずもない。今は労働の稼ぎでプロテインを購入したり、粗末すぎない食事を作ったり、日付が変わるころには眠ったりしているから、筋トレの効果がわりと出ている、気がする。

 

 晴れときどきくもり。

 上のようなことを書いてしばらく放置して、書いたことすらも忘れていた。忘れていたのにはそれなりの理由がある。仕事が割と忙しく、投げられる球を打ち返し、また打ち返し、みたいなことばかりしていたら、いつの間にか夜遅くになっている。そんな労働週間が終わったと思ったら、休みの日には引っ越し準備をしたり、友人の結婚式に参列するために地元に帰省したりしているうちに年末になっていた。

 そして、大風邪をひいた。

 過去2回、年末にインフルエンザに罹患したことがあるが、今回は夜中に急に熱が上がったかと思いきや、翌朝には微熱程度に下がった。ただ、頭痛とのどの痛みがあるので、念のため病院で検査を受けたところ、特に感染症には罹患していないようだったので、単なるひどい風邪だったということになる。よくわからん。

 病み上がりの体に鞭を打って仕事を納め(年明けからはまあまあ余裕ができそうで一安心)、それなりにゆったりとした正月を過ごした(きもち的に激しく動揺する出来事もあった)。年始は引っ越し後の諸々の手続きや後片付けに奔走していたところで、また熱が出た。今度は翌朝どころか次の日の夜まで熱が下がらず、これは何かしらに感染しているにちがいないと思ったが、翌々日になるとすっかり熱が下がった。体調不良の原因は結局よくわからんままになりそうだ。

 引っ越しの後始末がひと段落し、体調も落ち着いてきたので、よく行く古本屋に入荷していた小島信夫『別れる理由』を購入しに行った。まだ在庫が残っていたのでしっかりと抱えて帰った。この年末年始に読んでいた小説(海外のある作品)はSNSのフォロワーからは評判の良い作品だったが、どういうわけか自分にはハマらなかった。忙しない日々のせいで文章を読めなくなってしまったのか、と思っていたが、『別れる理由』の第一章はワクワクしながら読むことができたのできっと大丈夫だ。

 

 京子が一日かかって探した日本式の宿へ案内されたが、山上カレーニンは昔名のある人の別荘だったその古い建物の広い畳を敷いた便所のついたとてつもなく広い部屋が気にくわないといってそこをキャンセルして、それから自分でうまく見つけたホテルへ泊った。今年は山上は子供と絹子を連れて草津へ行く予定になっていた。ところが急に中学生の息子は学校から旅行に行くことになった。山上は不意にこの機会に絹子と二人だけでまた軽井沢のホテルに一泊したいと思い立った。

 この話をきいたとき、彼は微笑した。ホテルで二人きりで泊りたいと思っているこの老人と若い妻は、少し二人の中へ入りこんで考えると、彼の想像のいくつかの箱の中の、隅の方にある一つに当てはまるようなものに思われる。やがて十年たてば、彼の上にもめぐってくる世界であるが……

小島信夫『別れる理由』p.9、講談社、1982年)

合掌(BFC5一次予選通過作品)

 車に轢かれてから脚の調子が悪い。靴を履くにも手間取る。 杖をつき近所を散歩。くもり。歩く速さは遅くなった。 同じ病棟で先に入院していた小川さんよりも半月早くリハビリが終わった。小川さんは自分よりも軽傷だったがまだ入院している。こちとら人生の苦労が違う。急に日照る。暑くなる前に帰る。梅雨入りしたがあまり雨が降らない。空梅雨だと野菜が育たなくなる。U川の水位も低い。昔はここでかにを追いかけた。今はかにの数が減った。子供たちがかに追いをする姿を見なくなった。かにをつかまえるのは難しかった。それでも楽しかった。かに追いはヨシのほうがうまかった。ヨシがかにに近づくとなぜかかにのほうからヨシにつかまりにいく。自分はできなかった。ヨシはつかまえたかにを足でつぶしたり田んぼに投げたりしていた。いやだった。ヨシは一昨年肺がんで死んだ。かにのばちが当たったにちがいない。朝食。白飯。鮭。納豆。ほうれんそうととうふのみそ汁。連れ合いは畑へ。まだ畑仕事を再開できない。野菜に虫はついてないだろうか。 今日も……  

 ここまで書かれたメモが、『美味しんぼ』 第八巻の百ページと百一ページの間に挟まれていた。 第八巻の表紙には、赤々としたかにの写真が載っている。「 愛の納豆」という回の途中だった。『美味しんぼ』の続きよりも、 メモのほうが気になった。祖父の葬儀のため祖父母の家に来ていたが、両親や親族はバタバタしているし、いとこは保育園の年長と二歳になって間もない子で、特に話すこともない。怖がっているのか、向こうから近づいてもこない。寝室から『美味しんぼ』を取り、 居間に移動してこたつに入り、葬儀に参列したり、お菓子やみかんを食べたり、スマートフォンをいじったりしながら、いつの間にか八巻まで読み進めていた。

 火葬場に向かう前、「畑の記録をつけてたから」と言って、祖母が棺桶にノートやメモ帳の束を入れていた。いま見ているこれも、その一部なのだろう。畑の記録とは言っていたが、単にその日の天候や畑の状態を記録しただけでなく、祖父の日記に近い内容だったのかもしれない。いまは確かめることができない。挟まれていたメモは雑に書かれており、読みづらいところや誤字も多い。朝食のメニューに「鯉」 と書かれているが、「鯉」 を食べる話なんて祖父から聞いたことがないのでおそらく「鮭」だろう。

 相田はメモを開いてよく伸ばし、居間の畳の上に置いて、スマートフォンのカメラでそれを撮り、ついさっきまで連絡を取っていた深沢に送った。再び『 美味しんぼ』を読んでいると、深沢から返事が届いた。「なにこれ」「メモ」「なんの?」「じいさんの」「文字小さくて読めない」「美味しんぼに挟まってた」「美味しんぼ読んでるのwウケるw」

 相田は深沢から届いた最新のメッセージを既読をつけずに確認し、放置した。なんだか返信したくなかった。『美味しんぼ』の続きを読み終わってから祖父母の寝室に向かい、本棚に戻した。窓から庭を眺めると、冬枯れした柿の木がある。祖父が丁寧に手入れしていたので、食べごろになるとよく柿を貰っていた。小さいころは甘みを感じられなくて、そのまま食べるのは得意ではなかったが、干し柿にすると甘みが増すので好物だった。今では干し柿にしなくても柿をおいしく食べることができる。

美味しんぼ』が全巻あるくらい祖父は料理が好きだった。料理をするときは、祖母に対して厳しく指示を出していた。祖父が厳しいのは料理のときだけだと思っていたが、メモを見ると内心は誰にでも厳しかったようだ。お盆と正月に祖父母宅へ行くと、必ず祖父が作った料理が食卓に並んだ。天ぷら、吸いもの、煮ものなど、普段家では食べる機会の少ない料理を、祖父は丁寧に作っていた。盛り付けも上品だった。魚を捌くのも得意で、毎回新鮮な刺身をご馳走してくれた。 相田はカンパチの刺身が好きになった。カンパチがわりと高価だと知ったのはつい最近だ。いつも食べてばかりだった。祖父に料理のことを聞こうとしても、もうできない。

「仏さんにチーンして帰るよ」と母が呼ぶ。「あんたまだ制服のままだったの」と注意されたが無視した。父はもう一晩祖父母宅に宿泊すると言った。仏壇に座り、火をつけた線香を香炉に立て、りんを鳴らして目をつむり手を合わせた。菊の花と線香の煙が混じった匂いがした。「じゃあまた今度」と玄関まで見送りに来た祖母に言った。祖母の上着の裾からは肌着がびろんと出ていた。玄関の扉を開けると、冷たい風が脛に当たって、身体全体が縮こまった。外灯がほとんどなく、あたりは真っ暗だった。U川の水流の音と、木が風に揺れて葉っぱが当たる音だけが響いている。母の運転する車に乗り、狭い山道を下り始めてすぐに、U川橋に着いた。ここにいまもかにが住んでいるかどうかはわからないが、住んでいればいいと思った。スマートフォンが振動した。深沢からの連絡だった。「明日学校来る? 英語小テストあるよ」相田は深沢にテストの範囲を確認して、家に帰ってから少し勉強しようと思ったが、すぐに寝てしまった。次の日の小テストは十五点中二点だった。授業終わりに山口先生に呼ばれた。「大丈夫か?」「いえ、あの、『美味しんぼ』読んでて」とわけのわからない言い訳をした。「 はあ? まあ元気ならいいけど」と言って、山口先生はそのまま職員室に戻っていった。

 相田は十五年後の九月十日にこのことを思い出した。 パートナーがスーパーで刺身の盛り合わせを買ってきてくれた日だった。カンパチが入っていた。相田が「魚捌けるようになろうかな」と言うと、パートナーは「口だけでどうせやらないでしょ」と鼻で笑った。絶対に捌けるようになろうと決心した。

タートル・トーク(2022年10月30日公開)

 結婚式に来たのははじめてだったが、新郎新婦とその両親以外、 知っている人は四人しかいなかった。 新郎新婦は小中学校の同級生である。中学二年生のころ、 思春期のせいでうわついていたからか、 ふたりはいつの間にか付き合いはじめ、 いっしょに登下校するなどしていたが、 周囲も知らないうちに別れた。中学卒業後は同じ高校に入学し、 なぜか再び付き合った。 時には大げんかをして破局の危機に陥ったが、 互いを思う力で困難を乗り越え、ようやく結婚に至った、 という内容を披露宴の司会がドラマチックに語った。

 地元は過疎地域で、同級生は十六人しかいない。 互いの両親の顔までわかる関係であるにもかかわらず、 特別仲が良いわけでもない。成人式前後に連絡を取ったきり、 音沙汰なしの状態が続いたが、 彼らの結婚式の招待状が同級生全員に送られたことで、 久しぶりにグループラインが動いた。 特段イベントごとでもないかぎり、交流のない疎遠な間柄である。

 唯一、今でも交流のある同級生・ヨシノと、 乗り気ではないが結婚式を一目見てみたい、 ということで意見が一致し、参加することにした。 披露宴で同じテーブルにいた同級生はヨシノだけで、 ほかの席は新郎新婦の高校の同級生が座っていた。 我々は違う高校に通っていたので、彼らとは初対面だった。 外交辞令でもしようとしたが、彼らだけでずうっと話しており、 こちらへ意識が向くことはなかった。 式は新郎新婦の高校と大学の友人が多く、 出席者の少ない中学までの同級生は居心地が悪かったにちがいない 。披露宴の最中、新郎新婦と関わりの深い人たちが挨拶をしたり、 新郎新婦によるケーキ入刀が行われたりしているあいだ、 ヨシノは何をしていたかというと、常時飲酒していた。

 そもそもシャトルバスに乗り遅れ、 親の運転する車で式場に到着したときから顔はほんのり赤かった。 普段は仕事の愚痴をしゃべりまくるのがお決まりだが、 式場に到着してからのヨシノは珍しく無口だった。 赤ら顔のヨシノは心ここにあらずといった様子で、 周囲の盛り上がりもお構いなしに、黙って酒を飲み続けていた。「 何かあった?」と声をかけても、「別に」 と言って飲酒を再開した。平素とは明らかに様子が異なるので、 きっと仕事で嫌なことでもあったのだろう、と思っていた。

 披露宴は大いに盛り上がって終了した。新郎の大学の友人による、 新郎新婦最大の危機とそれを乗り越えるまでの過程をミュージカル 風に描いた寸劇で、会場はどっと沸いた。 新婦から両親へ宛てた手紙を読む場面では、 周囲から鼻を啜る音が聞こえてきた。 そんなときでもヨシノは常時飲酒していた。 披露宴が終わったあと、ヨシノは足早に式場を出て、 送迎バスに乗り込んだ。 当初の予定ではふたりとも二次会に参加する予定だったが、 ヨシノといっしょに帰ることにした。

 ほとんどの参加者が二次会に参加したので、 バスには五人くらいしかおらず、 ヨシノは後ろから二列目の窓際の席に座り、 外に植えられたピラカンサの赤い実を見ていた。 隣に座っても何かを思いつめた表情で黙っている。 あと十分もすれば駅に着くタイミングで、 ヨシノは突然話しかけてきた。

「うちに亀いたの覚えてる?」「え?」こちらの驚きを遮って、 ヨシノは再び聞いてくる。

「覚えてる?」「いたような、 いなかったような」「いたよ」「そうだったっけ?」「二匹」「 二匹も?」ヨシノの家に行ったことはあるが、 亀がいたことはまったく覚えていなかった。

「昨日仕事から帰ったら、 おばあちゃんが亀が逃げたって騒いでて。水槽確かめたら、 ほんとに一匹いないの。水槽には蓋してたし、 逃げるスキマなんてどこにもないのにね。 家の中も外もかなり探したけど、どこにもいなかったらしい。 弟が小さい頃に何かのお祭りで掬ってきた亀なんだけど、 飼うのは途中で飽きちゃって、代わりにおばあちゃんが育ててた。 世話し続けてたらおばあちゃんも愛着が増したみたいで、 今回の件は相当ショックだったっぽい。でも、 こちとら付き合ってた人に突然振られたあとだったから、 それどころじゃないんだよ。騒ぎたいのはこっちだよ。 明日また探そうね。ね? なんて適当になだめて、部屋に直行。 コンビニで買った酒をぐびぐび飲んでたら、寝落ちしちゃって。 で、夢を見たんだよ。家の入り口の前で手に亀を乗せて座ってた。 弟がお祭りで掬ったときくらいの小さい亀。そしたら、 どーんどーんって地面が揺れはじめて、 右の方から一軒家くらいの大きな亀がゆっくりとこっちに向かって 歩いてきた。手に乗った小さい亀はぷるぷる震えていた。 大きな亀は玄関の前まで来て、こっちを見てからぼそっと『 酒は口より入り、恋は目より入る』って言って、 そのままどっかへ行っちゃった。 手にいた小さい亀もでかい亀に付いて行こうとするから、『 待って!』って呼び止めようとした瞬間に目が覚めた」

 ご乗車ありがとうございました、という運転手の声がした。 窓の外を見ると、駅の名前が光っている。「 バス降りたあとで詳しく聞かせて」とヨシノに伝えて外に出ると、 昨夜に引き続き小雨が降っていて肌寒かった。 駐車場にいると濡れてしまう。 バスから降りたヨシノをどこかに誘って話の続きを聞こうとした瞬 間、ヨシノは突然歓楽街に向かって走り出した。 止めようとしたけれど、その必要はなかった。 ヨシノは歩道と車道の間の段差に足を引っかけてこけたのだ。 慌ててヨシノの元へ駆け寄ると、うつ伏せのまま「うー」 と唸っている。「大丈夫?」と声をかけると、仰向けになって「 なんでや!」と叫んだ。 ヨシノの声に驚いた通りすがりの老人がこちらをじっと見た。  関西出身でもないのに何で関西弁? とつっこもうとしたけれど、今日は止しておこう。

 

初出:ブンゲイファイトクラブ4 本戦出場作品

BFC4 1回戦Aグループ|ブンゲイファイトクラブ BFC